「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」という芭蕉の句があるが、キリギリスが重い兜に押しつぶされたのかと思っていた。ちがう。兜の下でコオロギが鳴いているのだ。その兜とは…。調べると、そこには諸行無常の世界が広がっていた。
「甲」は『平家物語』に登場する斎藤実盛のもので、実盛の死後、木曽義仲が多太神社(小松市上本折町)に奉納した。それから五百年ほど後に、芭蕉が神社を訪れ兜を拝観した。「むざんやな」は実盛の故事を思い起こした芭蕉の感慨であると同時に、謡曲『実盛』の「あなむざんやな、斎藤別当にて候ひけるぞや」や、『平家物語』の「あな無慚や、斎藤別当で候けり」という樋口次郎の嘆きでもある。
寂しいかのように鳴くコオロギ、この小さな命は冬を越すことはあるまい。戦場に散った数多の武者の命もまた儚い。せめてもの弔いに一句献じよう。芭蕉はそんな心情だったのではあるまいか。
浅口市寄島町に「斎藤別当実盛の墓」がある。
斎藤実盛は寿永二年(1183)5月21日、加賀篠原の戦いで木曽勢と戦い討死した。その様子は『平家物語』巻第七「実盛」に詳しい。歳をとり白髪になっているはずの実盛ならば髪が黒いはず…。義仲は不審に思って、実盛と親しかった樋口次郎兼光に訊いた。すると兼光は、実盛は生前次のように言っていたと答えた。
六十に余て、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚(びんひげ)を黒う染て、若やがうと思ふ也。其故は若殿原(わかとのはら)に争ひて、先を懸んも長(おとな)げなし。又老武者とて人の侮らんも口惜かるべし
六十を過ぎて合戦に臨むときには、髪やひげを黒く染めて、若々しく振る舞おうと思う。それは若武者と争って先駆けするのも大人げないし、老武者とあなどられるのも悔しいからだ。
歳はとっても気持ちは若く保つよう心掛け、一人の誇りある武者として最後まで戦った。その実盛を討ち取ったのは手塚太郎光盛で、マンガの神様・手塚治虫のご先祖様だという。
さて、本日の史跡に話を戻そう。ここは実盛が討死した加賀から遠く離れた備中寄島である。だが、五輪塔には「實盛之墓」と刻まれている。どのような事情があるのか。昭和61年発行の寄島町文化財保護委員会『寄島風土記』では、次のように説明されている。
斉藤別当実盛は東国武士で、初め源氏に仕えたが後に平氏に迎えられ、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に討たれた。その子信実主従は藤戸合戦に敗れ、平家の荘園であった大島庄を頼ってこの地に落ちのび、柴木の実盛の里に隠れ住んだといわれている。狭い山間にある十九戸の集落はみな斉藤姓を名のり、同族の先祖として、斉藤別当実盛の墓を建立して子孫が現在も年に一回集って供養を続けている。
実盛の子、信実は寿永三年12月7日(1185)の藤戸合戦に敗れ、この地に隠れ住んだという。貴種流離譚の一つ、隠れ里の伝承である。しかも、ここは「実盛」という地名で、ほとんどの家が「斎藤」姓だという。
先祖実盛の墓を建立して供養を続けることで、地域のアイデンティティを確認してきたのだろう。実盛の生き方は数百年の時を隔てて、地域づくりの原動力となっているのだ。
御子孫の方からコメントをいただき、光栄に存じます。長く続いてきた習わしを大切にされていることに敬意を表します。落葉が積もって滑りやすくなっていることでしょう。どうぞお気を付けになってください。ありがとうございました。
投稿情報: 玉山 | 2018/11/25 08:44
この地区に住む子孫にあたる者です。本家ではなく分家にあたりますが。年に一度、この墓まで登りお供え物をしているのは事実です。しかし、このお墓がある場所は到達すののが結構困難な場所であり、高齢者はまず無理な場所です。いつまで続けられるかはわかりませんが、自分が行くことができる間は行こうと思っています。
投稿情報: ショウ | 2018/11/25 00:53