「御朱印ガール」が本当にいるのかどうか知らないが、お寺に参拝して御朱印をいただくのは、ちょっとしたブームらしい。たぶん、スタンプラリーのような楽しみがあるのだろう。
御朱印集めを楽しむ方には、まったく役に立たない情報を一つ。京都にある有名な東西本願寺では、御朱印を行っていない。「朱印」よりも「教え」を大切にしてほしい、ということらしい。
本日は、そんな本願寺が東西に分かれる前に、和歌山市内にあったという話をしよう。
和歌山市鷺ノ森の本願寺鷺森別院の前に「鷺の森」という地名を解説した標柱がある。
本願寺鷺森別院は浄土真宗本願寺派、つまり西本願寺の宗派に属する。江戸中期以来の大伽藍は昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失してしまい、現在の美しい堂宇が平成6年に完成した。「鷺ノ森」という地名も美しい。解説を読んでみよう。
鷺の森の地名は、かつてこの地に梛(なぎ)の大木があり、その上に常に白鷺が棲んでいたという伝承に由来する。海部郡雑賀荘に属し、永禄六年(一五六三)、和歌浦から浄土真宗の雑賀御坊(鷺森御坊)が移転し、天正八年(一五八〇)には顕如(第十一世)を迎えて一時期この地が本願寺となり、寺内・門前がにぎわい、雑賀衆の拠点ともなった。浅野氏入国(一六〇〇年)後、寺の周辺六四石の地が寺領として認められ、城下町の町割計画から除外されて、土地区画の方向が異なる町割を示していたが、戦後、都市計画により現在のように改変された。
梛とは、マキ科の常緑針葉高木で、縁起の良い木とされている。高さが20mにもなるというから、その上に白鷺が群がれば壮観だろう。この地に信長と十年にわたる石山合戦を戦い抜いた顕如上人を迎えたことは、今でも地域の誇りである。
有岡城に続いて三木城が陥落し、信長への抵抗勢力は勢いを失っていた。本願寺はついに和議を受け入れることとし、顕如上人は本願寺から退去した。これが天正八年(1580)4月9日のことで、鷺森別院に入ったのは、その翌日である。
時は流れて天正十一年(1583)、抵抗を続ける雑賀衆と根来衆を平定するため、秀吉が動き始めた。顕如上人はあらぬ疑いをかけられるのを避け、泉州貝塚(現在の願泉寺)に移った。7月4日のことである。
顕如上人が鷺の森を本拠としていた三年間に、日本史を揺るがす大事件があった。天正十年(1582)6月2日未明の本能寺の変である。この時、信長は子の信孝に鷺の森を制圧するよう命じていたという。どうなったのだろうか。『陰徳太平記』巻第六十七「紀州鷺森合戦並本願寺表裡分派事」に次のように記述されている。
同六月三日の早朝、神戸殿の先鋒の兵鷺の森へ推寄たり。此地に残り留る門徒等如来の御助け、祖師の御恩報謝の為には、骨を砕かれ、身を裂る共可惜に非。可恐に非れば、今度を最後と思定めて、大鉄炮を搆置散々に打掛けるを、寄手一支は支へたりけれ共楯も竹束も被打壊ける程に、堪兼て数十町引去けり。各一息継て敵又寄来るかと見る所に、巳の刻許に寄手陣を払て大坂さして引退く。され共如此急に可引事とは不思寄ける故後を慕ふ事も無りけり。加程の猛勢寄せ来りて先陣鉄炮迫合計にて、止々と引退事、如何様不審千万と思しに、後に聞ば、信長公被殺給ふ注進に由て也。
天正十年6月3日の早朝、織田勢先鋒の信孝殿の兵が「鷺の森」に押し寄せてきた。この地にとどまる門徒らは、如来の助けや祖師のご恩に報いるために、骨が砕かれ身が裂かれても惜しくはないと思っていた。恐れるものがないので、これが最後だと決心して大砲を構え、さんざん撃ちまくったところ、寄手は、踏ん張ったけれども楯や竹束が打ち壊され、たまらず数十町引き下がった。一息ついて、また敵が押し寄せるかと思っていると、巳の刻のころに寄手は陣を引き払って大坂に退いてしまった。だが、こんなに急に退くとは思わなかったので、後追いすることはしなかった。これほどの勢いで攻め寄せ、先鋒が鉄砲を突き付けておきながら急に引き返したことは、どうにも解せなかったが、後から聞くと、信長公が殺されたとの報告があったために、そうなったとのことだ。
顕如上人は危機一髪のところを御仏の御加護により助かった、というのだ。『石山軍記』第六編「紀州鷺の森本願寺合戦竝織田信長御父子逆臣明智が為に御自害の事」では、いっそう物語化され、鷺の森を守る「鈴木孫市」が負傷した弟の「孫六」を救い出す場面が、次のように記述されている。
鈴木孫市斯(かく)と見るより宙を飛で馳来り、孫六を追取巻きたる敵兵を八方へ追散し、難なく孫六を救ひ出し、肩に掛けて引退く。
話としては面白いのだが、本能寺の変と同じタイミングで鷺の森で合戦があったことは、史実として確認できない。鈴木孫一(雑賀孫市)は、石山合戦後に信長方となっており、信長勢と戦うことはありえない。顕如上人も鈴木孫一も、日和見ではなく時勢に適応する力があったわけだ。
戦国の世に名を馳せた雑賀衆も、天正十三年(1585)の秀吉による紀州征伐で滅ぶこととなる。顕如上人と雑賀衆の考えと行動は必ずしも一致するわけではない。それでも、鷺の森に上人を迎え門前町が栄えた頃が、雑賀の最盛期だったのかもしれない。
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