政治は守旧派と改革派の対立と見ることができる。かつては古い世代を支持基盤とする自民党が戦前からの価値観を引き継ぐ守旧派であり、若い世代が支持する革新政党が平和と個人を尊重する改革派だった。
ところが、近年は若い世代がアベ政治を支持し、批判するのは古い世代という逆転の構図が見られるようになった。これは自民党が平和と個人を尊重するようになったからではない。政治を動かそうとする安倍首相こそ改革の旗手に見えるようになったのである。対する野党は戦後の価値観を頑迷に唱え続ける守旧派なのだ。
この守旧派と改革派の対立構図は、国という大組織から小さな会社に至るまで、そこここで見ることができる。本日は、初期の津山藩でもこの対立から事件が起きたことを紹介しよう。
津山市院庄に「にらみあいの松」がある。
旧出雲街道の南側ある公園に2本の松がある。この松が睨み合っているというのだが、どういうことだろうか。説明板を読んでみよう。
慶長八年(一六〇三)津山藩主森忠政の家臣井戸宇右衛門と名護屋九右衛門(山三郎)とが院庄で刃傷事件を起こし、両者とも死亡するという事件があった。伝説によれば、この両名の墓のうち、北を名護屋塚、南を井戸塚といい、一方の墓の上の松が栄えれば、他方の松が衰えるということを繰り返して、未だかつて枯れたことがないという。このことから、これら二つをにらみあいの松と呼ぶようになったという。なお、事件の一方の当事者名護屋山三郎は、かつて京都で浪人をしていたころ、歌舞伎の創始者出雲のお国との間にロマンスがあったという物語が広く世に伝えられているが、確実なことは不明である。
写真では奥が名護屋塚、手前が井戸塚である。未だかつて枯れたことがないというが、それにしては若い木に見える。不審に思って『津山市史』第三巻近世Ⅰで調べると、大正時代の写真が載っていた。まさに刀を手に睨み合うかのような松が相対している。事件と同様に松も共倒れしたのだろう。
井戸宇右衛門は主君森忠政の先代からの重臣で守旧派に位置付けられる。忠政に対して諫言することも多く、煙たがられていたのだろう。これに対して名護屋山三郎は忠政が取り立てた優秀な新参者で、姉は忠政に嫁いでいたという。政治的な立ち位置は改革派である。宇右衛門と山三郎とはまったく反りが合わず、山三郎が宇右衛門誅殺の許可を求めると、忠政はこれを許可した。
山三郎は数人の手勢を連れて上意討ちを決行したものの、剛勇で知られる宇右衛門に一刀のもとに倒されてしまう。そこで山三郎の手勢が宇右衛門に次々に斬りかかり、ついに宇右衛門も絶命したのである。宇右衛門には二人の弟がいたが、山三郎が差し向けた刺客に殺された。こうして山三郎と井戸兄弟はこの地に相対して葬られ、塚の上に松が植えられたという。
つまりは森家中の内ゲバであったが、この事件ののちに忠政は津山築城と城下町の建設に邁進することとなる。大プロジェクトの完遂に向けて家中もまとまり、津山藩の基礎が築かれたのである。
ところで、山三郎は見目麗しく、あの有名な出雲阿国の彼氏だったという。イケメンや美人を世間は放っておけないので、そんなウワサ話が創られたのだろうが、江戸時代には結構信じられていたようだ。あの天才平賀源内先生が天竺浪人というペンネームで著した『根南志具佐(ねなしぐさ)』というユーモア小説では、歌舞伎の由来が次のように紹介されている。
古は神楽(かぐら)とも云しを、聖徳太子、神楽の神の字の真中に墨打をして、秦河勝(はだのかはかつ)に鋸(のこぎり)にて引割(ひきわら)せ、是を名付て申楽(さるがく)といふ。其後の人、申の字の首と尻尾とを打切て、田楽(でんがく)と号して専(もっぱら)行れけり。其後は田の字の口をとりて、十楽などゝも名付べきを、永禄の頃出雲のお国といへる品者(しなもの)、江州の名古屋三左衛門となんいへるまめ男と夫婦となり、哥舞妓(かぶき)と名をかへ、今様の新狂言を出す。
むかしは「神楽」と呼ばれたが、聖徳太子が「神」の字の真ん中をガツンと打ち、秦河勝にノコギリで切らせたので「申楽」となった。その後の人が「申」の字のアタマとシッポをちょん切ったので「田楽」と呼ばれるようになった。さらに「田」の字の口を取って「十楽」となるのかと思ったら、永禄の頃に出雲阿国という美人が近江出身の名古屋三左衛門というイケメンと夫婦となって「歌舞伎」と名付け、現代風の新しい演劇にしたのである。
なるほど。単なるこじつけであっても、源内先生に説明されると妙な説得力を感じてしまう。なんといってもエレキテルという電気刺激治療器をつくった科学者でもあるのだから。それはさておき、内ゲバの現場が院庄だったことには理由がある。
津山市院庄に「構城(かまえじょう)址」がある。津山城と城下町が整備されている間、森忠政はこの構城に住んでいたという。
説明板がないので、津山市教育委員会『美作国の山城』を開き、城主について調べてみよう。
「古城之覚」は苫西郡院之庄村の「構之(城)」として、城主を片山杢之助宗満とする。「作陽誌」は「院庄城」として、兵乱の時代に美作国では諸城多く、隣国の軍勢により破られ、院庄もまた代々の城主が続かず、天正(一五七三~九三)末年に片山木工允・同左馬助が在城、慶長八年(一六〇三)、森忠政の美作支配にあたっては津山に移るまでの「仮居所」となり、のち寛永一五年(一六三八)に城は破却され、耕作地となり、今は堀がわずかに残るのみと記す。「美作鬢鏡」は、城主を「片山木工之助久義」とする。『美作古城史』は、片山杢之丞は戸島村(津山市戸島)に帰農したとの伝承があるとする。
忠政が入城する前には、片山「もくのすけ」か「もくのじょう」という人物が城主だったらしい。石碑に刻まれた文字を追うと「片山杢之助久義」が見つかった。
戦国之時久次十二世之祖片山杢之助久義実居此城
片山氏本姓藤原氏出於秀郷秀郷十八世之裔松田元
国事守邦親王有功賜備前御野津高二郡世居金川城
永禄中為宇喜多直家為攻陥元国十一世之孫元脩変
姓名遂来此地即久義也至子久弘移住富川
大正四年八月 津山 片山杢助藤原久次建之
戦国の頃、私の十二代前の先祖である片山杢之助久義が実にこの城にいた。片山氏は本姓が秀郷流の藤原氏で、秀郷から十八代後の子孫である松田元国が鎌倉将軍守邦親王に仕え、その功績により備前国の御野郡と津高郡を賜り、その後代々金川城を拠点とした。永禄年間に宇喜多直家が金川城を攻略した際に、元国から十一代後の子孫である元脩は姓名を変えてこの地にやって来た。これが久義である。子の久弘のとき富川(今の津山市戸川町)に移り住んだ。
石碑はこの城の城主の子孫が建てたのだ。碑がなければ城跡とは分からないが、おかげで初代津山藩主の最初の居城に行くことができた。松田元脩(もとなが)が姓名を変えて片山杢之助久義となったという点は不審だが、金川落城後の元脩の行方には諸説あるようで、津山来訪説もその一つなのだろう。
ともあれ津山藩は院庄から始まった。だから家臣団のトラブルもこの地で発生し、忠臣と能吏が命を落とす結果となった。
津山市のごんご通りに名護屋山三郎の看板がある。立派な津山城を見ることなく死んだ山三郎は、今こうして城下町津山で愛されている。なんだかすっかり遊び人になっているようだが、阿国の恋人なんだからよしとしよう。
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