「ラ王」は1992年の発売以来、ラーメンの王様として君臨している。「花王」は1887年創業の老舗で、花の王様ではなく顔に由来するという。では「医王」とは何か。医者の王様、まさか日本医師会の会長ではあるまい。このたび8年ぶりに新会長が選出され、蜜月だったアベ政権との距離ができたと言われている。医王とは何か。
津山市吉見に市指定史跡の「医王山(いおうやま)城跡」がある。ふもとにある岩尾(いわお)寺は薬師如来が本尊だから、医王は薬師如来に由来しているのだろう。
美作一円を支配するような戦国大名は現れなかったが、西部に高田城の三浦氏、東部に三星城の後藤氏が名族として勢威を張っていた。しかし、天正三年に高田城は毛利氏の手に落ち、同七年に三星城は宇喜多氏に攻略された。両城の中間にある医王山城は、今もJR因美線近くにあることから分かるように、因幡に通ずる交通の要衝を押さえていた。説明板を読んでみよう。
中世山城医王山城跡
医王山城は、祝山城あるいは岩尾山城とも呼ばれ、標高三四三メートルの医王山に築かれた中世の山城です。往古、上道是次が築城したともいわれ、美作から因幡に抜ける街道の要衝の地にあります。南北朝から戦国時代にかけては、山名・赤松・尼子・浦上・毛利等の諸勢力が相次いで美作地方に侵攻して医王山城を支配し、戦乱のさなかにありました。
なかでも、天正八年(一五八〇)には、毛利輝元の命により医王山城に在番していた湯原春綱・小川元政・塩屋元真等の地元国人勢力と宇喜多・秀吉勢との間で激戦が繰り広げられました。毛利勢は約二年にわたって医王山城を死守し、落城しませんでした。そして字喜多勢は撤退しました。
やがて、備中高松城合戦での毛利・秀吉の和睦により、医王山城は宇喜多領となりましたがしばらくは毛利勢が籠城していました。
主郭の石塁や散乱する瓦は、和睦後にも修復がなされたためと考えられ、山城としての重要性を物語っています。
約四〇〇年後、一九九五年地元の青壮年が中心となって整備を始め、保存会の結成、登山道の整備・遺構の調査等を行い、一九九七年津山市指定文化財となり現在に至っています。
医王山城跡保存会 二〇〇九年四月之建
『津山市史』第二巻中世の記述によれば、医王山城をめぐる毛利宇喜多の決戦が近付いた頃、この城は枡形城主の福田盛雅が預かっていた。福田氏は備後出身の毛利方武将、美作支配強化のため送り込まれていた。そこへさらに湯原春綱らの有力武将が派遣されたのである。
湯原氏は出雲出身で尼子氏旧臣、今は毛利方として活動していた。医王山城をめぐる戦いのさなか、織田方から出雲国内の所領をちらつかせる勧誘を受けたが、これを主君輝元に報告して忠義を尽くした。
宇喜多軍は医王山城を落とすことがかなわず、天正八年末、本格的な冬が始まる前に兵を引いたようだ。同十年の備中高松城での決戦後は宇喜多領となるが、毛利勢の抵抗はしばらく続いたようである。医王山城もまた「落ちない城」であった。
『作陽誌』(東作誌一巻、東北條郡綾部郷吉見村)所収の「医王山記」という古い記録に、「昔在出石硫仍為山名」とあるから硫黄(いおう)から医王(いおう)になったのだろうか。かつては温泉が湧いていたという言い伝えもある。温泉が医者の王様ということなら、なんだか分かるような気がする。
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