「義経が大陸に渡ってジンギスカンになった」は歴史における代表的なトンデモ説である。この説は小谷部全一郎の著作により、我が国の大陸進出と軌を一にして広く知られるようになった。その小谷部は昭和十年発行の『義経と満州』において、次のように述べている。
こゝに面白い話といふは、成吉思汗の義経が北京城攻擊の時に、脚に矢を受け、其の応急手当中に、自着として椅子に腰を掛け、片足を台の上にのせて、薄く切った羊の肉を串にさし、醤油の付け焼きにしたものを食べたといふことで、成吉思汗が平常これを好んだものであらうと思ふ。爾来これが北京名物の一つとなってこれを成吉思汗焼と呼び毎年十二月末に屋台店を出してこれを売出し、お客は孰れも椅子に腰を掛け昔し成吉思汗がやった様に片足を台の上にあげて食べるが法式となってゐる。支那人が営んで居る東京の支那料理店でも、毎年十二月末に之を食べさせる所もあれば試みられたい。此の薄く切った羊の肉を串にさして醤油の付け焼きにするといふ事に就て思い起されることは、義経が第二の故郷である奥州平泉地方は素より、東北地方一般に六七分角位に切った鮭の切身を串にさし、醤油の付け焼きにしたものを、俗に付け焼きと呼んで賞味する習慣がある。義経これを好み、鮭のない蒙古では、その味に似た柔かい羊の肉を以てしたことゝ思はれる。
ファンタジーとしてはとても魅力的だ。義経ならさもありなんという妙な説得力さえ感じられる。本日の話は義経がジンギスカン料理を伝えるずいぶん以前にさかのぼる。舞台は義経が颯爽と駆け抜けた播磨路である。
加東市上三草の国道372号沿いに「平家本陣跡モニュメント」がある。平成6年の竣工である。
寿永二年(1183)に都落ちした平家は木曽義仲と源範頼・義経が争う間に勢力を回復し、翌三年には福原まで進出していた。義仲を滅ぼし平氏追討の院宣を受けた源氏軍は、大手から攻める範頼が西国街道を進み、搦手から攻める義経が丹波路を進んだ。丹波から只越(ただごえ)峠を越えて播磨に入った義経は、2月4日夜に平家軍に襲いかかる。説明の碑文を読んでみよう。
三草山合戦
「平家物語」によると、一一八四年(寿永三年)二月、当地の南に位置する三草山(標高四二四m)を舞台として源氏と平家の合戦がおこなわれた。
源義経の率いる軍勢一万余騎は、丹波路を下り、平資盛を中心として三草山の麓に守備する約三千騎の平家軍陣地を夜襲した。攻撃は明日であろうと油断していた平家方に対し、数の上でも勝る源氏軍は一挙に陣を打ち破り、資盛は讃岐国屋島へ敗走し、義経はその後鵯越へと向かったという。
7日早朝に決行される生田・一ノ谷の戦いの前哨戦である。この丹波路の行軍路は伝説の宝庫で、小野市立好古館が平成6年に「急げ一の谷へ 小野を駆けぬけた義経の伝承」という特別展で詳細に紹介しており、このブログでも「はったい粉パワーで進軍(一ノ谷前史・前)」と「田租永代免除の特権(一ノ谷前史・後)」で小野市内の伝承地を採り上げたことがある。今回は加東市内の3カ所についてレポートしよう。
国道372号は加東市馬瀬のあたりで「御所谷」を通過する。
ふつうの道にしか思えないが、地形図で見ると「谷」であることが分かる。大正十二年発行の『加東郡誌』には次のように紹介されている。
御所が谷(平家谷)
鴨川村上鴨川村にあり。
一、鴨川より十余町馬瀬より二十四五町に当る所に谷ありて御所が谷といふ。寿永年間源平三草山合戦の時平家方の陣所なりしと言ひ伝ふ【口碑】
一、平家谷トモ云又御所カ谷トモ云ナリ【播磨鑑】
上鴨川にあるというが、地形から見て馬瀬のほうが適確だろう。ところが『平家物語』巻第九「三草合戦」には、平家方の陣所について次のような記述がある。
平家の方には大将軍小松新三位中将資盛、同少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛、侍大将には平内兵衛清家、海老次郎盛方を初として、都合其勢三千余騎、小野原より三里隔てゝ三草山の西の山口に陣を取る。
小野原は丹波篠山市今田町上小野原、下小野原だから、三里隔てた山口は加東市山口のあたりと考えられる。先に紹介したモニュメントの位置は、正確には上三草だが、平家物語の伝える「三草山の西の山口」として適当だろう。
平家本陣跡モニュメントの上手すぐのところに「弁慶の力石」がある。
弁慶が投げたにしては小さいようだが、どのようないわれがあるのだろうか。『社町史』第一巻本編1には「三草合戦をめぐる伝承」という貴重な記事があり、この石について次のように記している。
馬瀬には、集落から南にはずれた路傍に「弁慶の力石」とか「岩の鼻」と称する岩があって、弁慶が薙刀あるいは錫杖で突いてあけたという直径一〇センチメートルほどの穴がある。大正期には付近の茶店で「力餅」という餅を売っていたという。
ポイントは穴だ。見た人はそこに意味を読み取ろうとする。暴れん坊で怪力の弁慶が薙刀か錫杖で突いたのだと。加東市平木にある播州清水寺には「弁慶の碁盤」があり、2-一六の位置に黒石がめり込んでいるのだ。住職と碁を打って負けた腹いせに、弁慶がねじ込んだものだという。暴れだしたら手に負えない。
加東市上久米に「弁慶の投げ桜」がある。「伝承南へ三十米」とあるので、田んぼの向こうに見える樹がそれだろう。
弁慶がまたやらかしているようだ。先ほどと同じ『社町史』は次のように記している。
弁慶については、上久米に「弁慶の投げ桜」伝説がある。三草合戦のあと義経軍が掎鹿寺(はしかじ・東条町掎鹿谷)に向かう途中、上久米の千鳥川畔で弁慶の頭に桜の木の枝が当たったので、弁慶がその枝を投げつけたところ、地面に突き刺さった枝から根が生えて大きな桜の木になったという話である。
頭に当たったからと言いますが、身をかがめれば通れるでしょう。そんな説諭を聞くはずもない。一ノ谷に向けて全軍が急いでいるときに、弁慶は行軍ルートから離れて暴れている。義経もさぞかし始末に困っただろう。
実際には、義経や弁慶の物語を民衆が楽しむようになった江戸時代からの伝承だろう。史実があったから史跡があるのではなく、物語から史跡が生まれているのである。
ロシアのウスリースクのパルク・ドラを小谷部全一郎は「義経公園」と呼び、公園内にある亀の彫刻(おそらくは石碑の台座である亀趺)を「義将軍の碑」とした。これは伝説の始まりかもしれないし、単なる捏造なのかもしれない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。