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信長最大の危機は天正六年(1578)に訪れた。もっと危機感を抱いたのは最前線で毛利勢と対峙していた秀吉だったろう。前年から始まった秀吉の播磨攻めは、その年の暮れには西播磨の上月城を陥落させ、播磨一帯は織田の勢力圏に納まるかに思えた。
ところが東播磨三木城の別所長治が離反し、上月城は奪い返され、さらに摂津有岡城の荒木村重まで離反したのである。オセロゲームの石が一気に相手色に変わったようなものだ。ここで一気に毛利勢本隊が押し寄せたなら、戦国史は別の展開を見せていたかもしれない。
しかし、そうならなかったのは天正七年に宇喜多直家が毛利方を離れたからだ。翌八年には三木合戦と石山合戦が終了し、秀吉は播磨一帯の平定に成功する。直家はほどなく死去することとなるが、秀吉が遺児秀家を重用したのは、播磨攻めの窮地を救った宇喜多への感謝からかもしれない。
本日は播磨攻めの最終局面の舞台となった山城を紹介することとしよう。
宍粟市山崎町五十波(いかば)に「長水城(ちょうずいじょう)址」がある。
車を置いて1㎞の山路を登る。城跡は長水山の山頂にあり、三等三角点「蔦沢2」584.2mも置かれている。難攻不落としか思えないが、秀吉は攻略に成功した。どのような戦いがあたのか、説明板を読んでみよう。
長水城址
【所在地】宍粟市山崎町五十波
市街地より北西に約五キロ、五十波地区と宇野地区に跨りそびえる標高約五八四メートルの長水山上に築かれた山城で、南北朝期に赤松円心の三男則祐によって築かれたと伝わる。西播磨守護代をつとめた赤松一族宇野氏は、室町中期まで篠ノ丸城に本拠を置いたが、戦国期になると防備に優れた長水城に拠点を移した考えられている。
播磨北西部の城としては規模が大きく、現在信徳寺の本堂が建つ山頂部に東西約一〇メートル、南北約二三メートルの主郭を置き、南北と北東方向へ延びる尾根を約一〇〇メートルにわたり段々に削平して郭を設けている。主郭の石垣は最高で約六メートルあるが、大部分は後世に積み直されたものと考えられている。
なお、宇野地区の伊水小学校は大手口の居館跡と推定されており、地名などの残りからこの地域には原初的な城下町があったものと推測されている。また、搦手口の五十波地区にも五十波構(いかばがまえ)と呼ばれる平城があった。
天正八年(一五八〇)四月、聖山城に本陣を置いた羽柴秀吉は宇野方の拠点を次々と攻略して長水城に迫り、所々に砦を構えて包囲を固め一端英賀(姫路市)へ転戦した。同年五月、奮闘むなしく城を脱出した宇野政頼(まさより)・祐清(すけきよ)父子は美作方面へ逃れようとしたが、蜂須賀家政・荒木重堅(しげかた)・神子田正治(みこだまさはる)らの軍勢に追いつかれ、千種大森で討ち死にしたとされる。
なお、江戸後期成立の『長水軍記』は、黒田官兵衛の調略で裏切った家臣の放火により長水城が落城したと伝えている。その真相は不明であるが、宇野氏の滅亡によって播磨の反織田勢力は一掃され、当地の戦国時代は終焉することとなった。
その後、宍粟は神子田正治、次いで黒田官兵衛らの領地となり、元和元年(一六一五)宍粟藩主となった池田輝澄が山崎城を築城して近世城下町を整備し、長水城はその役割を終えることになった。
参考文献
兵庫県教育委員会編『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか
軍記物の叙述に惑わされることなく、史実を丁寧に追っている。難攻不落の城を陥落させたのは官兵衛の調略であったと説明すれば誰もが納得しそうだが、実際には官兵衛が戦いに参加したかどうかも不明である。
宇野氏は赤松氏の本家筋だとも言われる誇り高き名族である。『群書類従』巻第三百九十三合戦部廿五所収「赤松記」には次のように記されている。
爰に赤松の初を申さば。人王はじめて六十二代村上天皇と申。其御子具平親王より三代右大臣顕房の御子。第一は中院左大臣雅房と申。久我殿の御先祖なり。第二丹波守季房の御子のとき。播磨の国佐用庄赤松谷といふ所にながされ給ひて其子孫住給ふ。かくて五代目を則景と申。此人宇野といふ所を知行し。宇野名字の元祖なり。此時関東に下り給ひて北条どの縁者となつて。建久四年七月四日佐用庄地頭職を頼朝の御下文御拝領なり。是よりして宇野播磨権守則景と申。其弟二人あり。第二は宇野新大夫則連。其弟得平三郎これなり。是は佐用庄の内得平名といふを取たるにより則得平と名乗る。于今出井分と申は此所なり。則景より四代目を次郎家則と申。其子則村。赤松と名乗。赤松孫次郎と申。法名円心。此時播磨。備前。美作。三ヶ国御取候。
家系は粉飾されることが多いので慎重に扱わねばならぬ。在地武士がその出自を荘園領主に仮託することがあるようなので、赤松氏のご先祖も村上源氏のお公家さんの荘園に住んでいたのかもしれない。
ここで注目したいのは赤松と名乗る前に宇野という名字を使っていたことだ。このあたりが宇野氏が本家筋だと主張する根拠かもしれない。しかし現実には宇野氏は赤松氏の臣下であり、有馬氏や別所氏、上月氏、得平氏などと同じく赤松氏の同族であった。赤松本家の盛衰についてはアーカイブ「守護大名赤松氏のその後」に書いたが、宇野氏をはじめ同族の多くがその勢力を失っていった。
山頂に供養塔があり「長水城主宇野下総守主従一族英霊之塔」と天正八年五月九日の命日が刻まれている。宇野下総守とは政頼のことである。
山城は登って初めて理解できるというが、この城もそうだ。宇野氏かつての本城の篠ノ丸城、東西交通の要衝を押さえる聖山城が見える。山を下りて聖山城に行くこととしよう。
宍粟市山崎町須賀沢に「聖山城(ひじりやまじょう)址」がある。
小さな山城だからと少々侮っていたようだ。登城路がけっこう急峻に感じたのは、長水山に登り下りした疲れのせいばかりではあるまい。要害と呼んで差し支えなかろう。説明板には次のように記されている。
聖山城址
【所在地】宍粟市山崎町須賀沢(出石)(いだいし)
出石地区を流れる揖保川左岸の標高約一六八メートルの尾根上に築かれた山城で、明応二年(一四九三)宇野氏の重臣下村氏によって築城されたと伝わる。
城郭としての規模は小さいものの、尾根の突端に東西約一二メートル、南北約九メートルの主郭を置き、北側斜面に帯郭、西側斜面に腰郭を配して防備を固めている。また、主郭東側に二の郭・三の郭を置き、東端に高さ約二.六メートルの土塁を築いて敵の侵入を防いでいる。主郭からは宇野氏の本拠篠ノ丸城・長水城への眺望が開けており、実際には見張り台的な城だったと考えられる。
江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』によれば、天正八年(一五八〇)四月、羽柴秀吉は対岸の篠ノ丸城・長水城に篭城する宇野氏を攻めるため、背後の高取山を越えてまずこの城を落とし本陣を置いたという。また同書には、このとき黒田官兵衛が「篝火(かがりび)に、宇野(鵜の)首見せる、広瀬かな」との発句を詠んだことが記されている。
しかし、本来この句は竹中半兵衛の子重門が著した『豊鑑』に連歌師の里村紹巴(じょうは)の発句としてあるもので、官兵衛がこの合戦に参加していたかどうか真相は不明である。
参考文献
兵庫果教育委員会編集『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか
なんと秀吉の本陣が置かれたのだという。さしもの要害も秀吉の大軍を前に、なす術がなかったのだろう。
これが秀吉が見た眺めだ。宇野氏は蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなったかもしれない。それでも、城を枕に討死という短慮な選択をせず、山深い地形を利用して城を脱出することに成功した。美作方面に逃れて再起を図ろうとしたものの、秀吉勢に追いつかれて命を落とす。名族宇野氏の最期、秀吉の播磨攻め完遂である。
この後、戦局はどうなるのか。備前・美作方面は宇喜多氏が毛利勢をよく食い止めていたから、秀吉は因幡に向かうこととした。鳥取の渇(かつ)え殺しと呼ばれる凄惨な戦いとなるのは翌天正九年のことである。