母を訪ねて三千里のマルコと浄土真宗の蓮如上人、母を思う気持ちは古今東西同じなのだと思う。母は人の原点であり、かけがえのない存在である。今日は蓮如上人の母の話をしたい。
福山市鞆町鞆の本願寺に「蓮如上人の母の墓」といわれる石塔がある。
この“時宗”の本願寺には、次のような伝承がある。境内にある解説板を読んでみよう。
蓮如上人誕生寺
応永廿二年(1415)生れる。生母は六歳の頃、蓮如を残し姿を消している。赤貧に耐え修学し後十五歳の頃、本願寺再興を決心して上京する。長禄元年(1457)四十三歳で八世中興の祖となる。
通説では京都東山大谷の本願寺で生まれたとされる。ところが寺伝では、ここ備後から再興を決意して上京したという。唐突なように感じるが、備後との関係は故なきことではない。蓮如上人に近侍していた法専坊空善の記録「空善聞書」に次のように記されている。(『蓮如上人・空善聞書』講談社学術文庫より)
ある時仰に、わが御身の御母は西国の人なり、ときゝ及候ほどに、空善をたのみ、はりままでなりともくだりたきなり。わが母は、我身六の年にすてゝ、行きかたしらざりしに、年はるか後に、備後にあるよし、四条の道場よりきこえぬ。これによりてはりまへくだりたき、といひければ、空善はしりまはり造作し候よし候。命あらばひとたびくだりたきなり、と仰候き。
6歳の時に別れた母が備後にいらっしゃるらしい。せめて播磨まででも下りたいものだ。蓮如上人はそのようにおっしゃった。上人は母を通じて備後とつながっていた。「御母」とはどのような方なのか。「空善聞書」の見返しには後世の書き込みがあり、次のように記されている。(上記学術文庫より)
蓮如上人御母公御歌、
恋しくは たづ子てもこよ からさきの 石立つ山の 救世の誓ひを
此の御母儀は藤原の信高公石山観音に申し子也。御名を蓮の前と申す故、蓮師、御名を蓮如と御付き被成候。
どこかで聞いたことがある歌だと思ったら…
恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉
葛の葉子別れ伝説と重なっている。これだから伝説は奥が深い。では、母の本当の姿とは…学術文庫に解説してもらおう。
蓮如の生母。蓮の前。生まれは備後国とも豊後国ともいう。蓮如の祖父で、蓮如誕生時本願寺住持であった巧如の、亡き妻の仕女であったという。蓮如六歳の時、蓮如の父存如が正室を迎えることになり、子蓮如の寿像を抱えて出奔。以後行方知れず、蓮如はその後母に会うことはなく、出奔の日である応永二十七年(一四二〇)十二月二十八日を、母の命日とした。また、石山寺の如意輪観音の化身とも伝承されている。
母の故郷は備後。だから備後に帰った。だから備後に墓がある。しかし、石山観音伝説を詳述した『蓮如上人仰条々連々聞書』には、次のような記述が見られる。
蓮如上人ノ御母儀ハ化人ニテマシマシケリ。無疑石山観世音菩薩ニテソオハシマシケル。上人六歳ノトキ我ハ是ニアルヘキ身ニアラストテ、応永二十七年十二月廿八日東山ノ御坊ノ後ノ妻戸ヨリ唯一人ハシリ出給ヒシカ行方シラス成給ナリ。其頃上人六歳ノ寿像ヲ絵師ニ書セ表褒衣マテサセテトリテ出給フ。我ハ九州豊後国ノトモト云所ノ者ナリトソ宣ケル。彼所ヤ観音ノ由緒ノ何トソ侍ラン。上人御成人ノ後ニ人ヲ下御尋アルケレ共、左様ノ人ユカリトテハナク知タル事モナシト申ケル。其頃江州石山ノ観世音ハ石山ニマシマサヌトイヘル支証明鏡ナル事ノ侍ルヲ、寺家ノ人々語リケルコソ不思議ナレ。其後カノ六歳寿像ハ石山観音堂ノ内陣ニカカリテアリケリト各申伝タル事ノ子細アリ、不思議ナリシ事共也。彼御母儀ハ東山ノ御坊ニテ例式女房達ノ様ニソオハシケルト人々語アヒケリ。
ここでは豊後の出身だという。では、豊後と蓮如の母、どのように関係しているのか。調べてみると、豊後高田市臼野の光徳寺に「蓮如上人生母の墓」があるそうだ。母の二つの墓のうち、先に紹介した福山市内の墓は「びんごのとも」にあって、豊後高田市内の墓は「ぶんごのもと」にあるということだ。しかし、上記引用文中には「豊後国ノトモ」となっており、それぞれに微妙に異なっている。
さまざまに伝説に彩られた母だが、蓮如という息子が歴史を大きく動かしたことは間違いない。無名の母はグレートマザーであった。
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