怨霊といえば、藤原氏に排斥された菅原道真、保元の乱に敗れた崇徳天皇、そして関東の自立を図った平将門。特に平将門に関しては東京大手町の将門首塚がよく知られている。倒された者が恨みを抱いて怨霊になるのが普通だが、将門を倒した勝者にも怨霊と化した者がいた。
宇治市又振に「末多武利(またふり)神社」がある。
この神社の祭神は藤原忠文。藤原四家のうち式家の出身である。式家は山部親王(のちの桓武天皇)の立太子に尽力した百川、その子で桓武天皇の恩寵を受けた緒嗣の頃に栄えるが、やがて北家の台頭に押されがちになる。緒嗣、春津、枝良と続き、忠文に至って再び重要な役職を与えられることとなった。『日本紀略』に次の記述がある。
十九日乙酉。勅以参議修理大夫藤原朝臣忠文任右衛門督。為征東大将軍。(天慶三年正月条)
五月十九日戊寅。征南海賊使小野好古飛駅言。賊徒虜掠太宰府内。仍以参議右衛門督藤原朝臣忠文。任征西大将軍。又任副将軍々監以下。(天慶四年条)
「征東大将軍」とは、臨時ながら強大な兵権を有する、いわば征夷大将軍のようなものだ。これは平将門の乱に際しての下命である。続いて忠文は「征西大将軍」に任じられ藤原純友の乱の鎮定に当たる。日本武尊がごとき東奔西走である。
写真左の説明板では「征夷大将軍として関東の平将門の乱の平定に向かいました」とある。一般に歴代の征夷大将軍に藤原忠文は登場しないのだが、説明板の表記には典拠があって誤りとはいえない。『扶桑略記』に次のように記されている。
二月八日甲辰。々刻。主上出御南殿。賜征夷大将軍右衛門督藤原忠文節刀。下遣於坂東國。即以參議修理大夫兼右衛門督藤原忠文為大将軍。世謂宇治民部卿是也。(天慶三年条)
「宇治民部卿」と宇治と忠文の接点も見えてきた。道長と政権を争って敗れた藤原伊周は漢詩の名手であったが、彼の詩の注に忠文が登場する。伊周は宇治川に遊び、数十年前に活躍した将軍を偲んでいる。『本朝麗藻』下に収められている「与諸文友泛船於宇治川聊以逍遙」の自注である。
深草西岸有一旧墟、臨河有楊柳両三株。人伝、天慶征東使終焉之地也。
さて、平将門は藤原秀郷と平貞盛に誅されて乱は収束する。秀郷や貞盛らの地方武士を征東大将軍である忠文が指揮すれば体裁が整ったのだが、実際には忠文が到着する前に乱は終わったのであった。論功行賞により秀郷は従四位下に叙せられ下野・武蔵両国の守に任じられた。また貞盛は従五位上に叙せられ右馬助に任じられた。忠文はどうであったか。『古事談』を読んでみよう。
忠文卿勧賞の沙汰の時、左大臣定め申されて云はく、「疑はしきをば質すこと勿かれ」と云々。右大臣申されて云はく、「『刑の疑はしきをば質すこと勿かれ。賞の疑はしきをば許せ』とこそ候へ」と申されけれども、左府の申す詞を用ゐらるるに依り、遂に其の沙汰無し、と云々。忠文、此の事を畏み申すに依り、後日、富家の券契を九条殿に奉る、と云々。小野宮殿をば、怨心を結び子孫を失はむと誓ひ、永く霊と成る、と云々。
忠文に恩賞を与えるか議論になった時、藤原実頼が「忠文は将門を倒すのに功績があったか疑わしい。疑わしいのに恩賞を与えてはならない」と言った。これに対して藤原師輔は「『疑わしいのに刑を科してはならないが、賞を与えるのはかまわない』というではないか」と言ったが、実頼の主張が通り、ついに忠文には恩賞が与えられなかった。忠文は自分を擁護してくれた師輔に深く感謝し、のちに土地の証文を師輔に差し上げた。実頼には恨みの念を抱き「子孫を絶やしてやる」と誓って怨霊となった、ということだ。
この話は『平家物語』で、平維盛が富士川の戦いから逃げ帰ったにもかかわらず恩賞を与えられた場面で挿話として引かれている。寶文館版で巻第五「五節之沙汰」から一部を抜き書きしよう。
忠文(ただふん)是を口惜(くちおしき)事にして、「小野宮殿の御末をば、奴(やっこ)に見なさん。九条殿の御末には、何(いずれ)の世迄も守護神と成(なら)ん。」と誓ひつゝ、干死(ひじに)にこそし給ひけれ。されば九条殿の御末は、目出たう栄させ給へども、小野宮殿の御末には、然るべき人も坐(ましま)さず、今は絶果(たえはて)給ひけるにこそ。
食を絶っての死、師輔の子孫は栄えているが実頼の子孫は絶え果てたという現実。怨霊の力を見せつけられる思いがする。事実、実頼の子孫は三蹟の佐理、小倉百人一首の定頼を輩出するが、やがて歴史の舞台から消え失せる。一方、師輔の子孫は天皇の外戚の地位を確立し、綺羅星のごとく今に高貴な家系を伝えている。
さらに『源平盛衰記』になると描写に具体性が増す。博文館版で巻第廿三「忠文神と祝ふ」から同じ場面を抜き書きしよう。句読点や送り仮名を一部付け加えている。
爰に忠文大悪心を起して、面目なく内裏を罷り出でけるが、天も響き地も崩るゝ計(ばかり)の大音声を放ち云ひけるは、「口惜(くちおし)き事なり。同(おなじ)く勅命を蒙むりて同(おなじ)く朝敵を平らぐ、一人は賞に預り一人は恩に漏る。小野宮殿の御計(はか)らひ、生々世々忘るべからず。されば家門(かもん)衰蔽(すいへい)し給ひて、其末葉(ばつよう)たらん人は、ながく九条殿の御子孫の奴婢(ぬひ)と成り給ふべし」とて高く訇(ののし)り、手をはたと打ち拳(こぶし)を把(にぎ)りたりければ、左右の八の爪、手の甲に通り、血流れ出でければ紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰り飲食(おんじき)を断ち、思ひ死に失(うせ)にけり。悪霊と成つて様々をそろしき事共有ければ、怨霊を宥(なだ)め申すべしとて、忠文を神と祝ひ奉つる。宇治に離宮明神と申すは是也。誠に其恨の通りけるにや、小野宮殿の御子孫は絶へ給へるが如し。たま/\まします人も、必ず皆九条殿の奴婢(ぬひ)とぞ成り給へる。九条殿は一言の情(なさけ)に依て、摂政関白今に絶へさせ給はず。
そして近代になって幸田露伴が人物評価を加えて次のように記している。大正9年発表の『平将門』である。
丁度都では此時参議右衛門督藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、方(まさ)に食事をしてゐたが、命を聞くと即時に箸を投じて起つて、節刀(せっとう)を受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。生ぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、拳を握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮大臣を詛(のろ)つたといふところなどは余り小さい。
怨霊に化して力を発揮する前に「余り小さい」などと貶められたら為す術がなくなるが、近代の人間観とはそういうものだろう。とかくに人の世は住みにくい。怨霊もこぼしていることだろう。
しかし、考えてみるがよい。征東大将軍と征西大将軍とを兼ねた人物など、藤原忠文くらいなものではないか。寛容であることの大切さを教えてくれる平安のヤマトタケルなのだ。
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