さつまいも掘りは幼稚園行事の定番で、うちの子もお世話になった。スーパーでは見たこともないような大きな芋が出て来ると、親のほうが興奮している。収穫の喜びと自然への感謝は大昔から大切にされてきた姿勢だが、それを分かりやすく体験できる。子どもは天ぷらにするのが一番好きなようで、それしか食べないので、むしろ困る。
目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺に「青木昆陽墓」がある。国指定史跡である。まさに国家の恩人である。
さつまいもを普及させた人物とは知っているが、基本的な情報を東京都教育委員会の説明板でおさらいしておこう。
江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄十一年(一六九八)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
彼は八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、『和蘭文字略考』『和蘭訳語』などを著述する。また『蕃薯考』を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために、“甘藷先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年(一七六九)歿。行年七十二歳。
戒名は「本立院殿道誉生安一誠居士」というが、「甘藷先生」との墓碑銘が彼の事績に相応しい。墓碑の左面には次のように刻まれている。
享保二十年青木敦書蒙
命種甘藷因人呼予曰甘藷先生甘藷流傳使
天下無餓人是予願也今作壽塚書石曰甘
藷先生墓
「寿塚」ということから生前墓であることがわかる。「甘藷先生」は後世の人々が食の恩人を慕って名付けたのかと思っていたが、自他共に認める誇りあるニックネームであった。享保20年(1735)は先生がさつまいもの性質や栽培法を『蕃薯考』という農学書にまとめた年である。天下から飢える人を無くしたい先生の願いは今やすっかり実現されたのみならず、飽食の時代を迎えているが、先生は食糧安全保障の先駆者として当時から今世に至るまで顕彰されている。
しかし、さつまいも普及の功績は、独り甘藷先生に占められるものではない。琉球の野國總管が1605年に、種子島の種子島久基が1698年に、薩摩(山川)の前田利右衛門が1705年に、山城(城陽)の嶋利兵衛が1716年に、石見の代官・井戸平左衛門が1732年にそれぞれ、さつまいもの栽培を行ったという。甘藷先生の仕事は、実に先人の業績の集大成であった。