平成16年は徳川家光の生誕400年ということで埼玉県川越市ではイベントが行われていた。家光は川越地方にたびたび来遊したことがあるそうで、この地とのゆかりが深い。私が訪れた時、川越市立博物館で「仙波東照宮『三十六歌仙額』展」が行われていた。
この三十六歌仙額は各地に伝わる同種の額では唯一、重要文化財に指定されている優れものである。和歌の書は青蓮院尊純法親王、絵師は岩佐又兵衛である。金地に豊頬長頤(ほうきょうちょうい)という特徴ある相貌の人物が描かれている。濃いイメージの絵だな。これが私と又兵衛との出会いであった。
福井市松本三丁目の興宗寺に「岩佐又兵衛勝以墓」がある。
又兵衛は「浮世絵元祖」とも呼ばれ、標柱にもそのように刻まれている。浮世絵の祖といえば菱川師宣の名が教科書的には有名だが、いったいどのような人物なのだろう。福井市が設置している説明を読んでみよう。
『山中常磐絵巻』等、数々の名作を遺し、浮世絵の元祖とも言われる岩佐又兵衛勝以は、元和元年(1615)頃から20年余り福井に住んだ。
彼は天正6年(1578)、伊丹城主荒木村重の子として出生。村重は翌年、織田信長に反逆し一族処刑され、又兵衛のみ乳母に抱かれて大坂石山の本願寺に逃れた。豊臣の世となり、母方の姓・岩佐を名乗り京都本願寺で育った彼は、やがて画才を発揮し、狩野派及び土佐派を学んだ。
徳川の世となり、本願寺に勤務していた興宗寺第十代心願に招かれ、又兵衛は40歳で福井に来て、時の藩主松平忠直公にも恩顧を受け、当寺呉服町に在った興宗寺を拠点として、水を得た魚の如く画作に励んだ。
その名声は江戸にも達し、三代将軍家光に招かれ寛永14年(1637)、60歳の時、家族を残して単身江戸に往き、川越東照宮の「三十六歌仙絵額」(国重文)の制作や家光の娘千代姫が尾張徳川家へ輿入れする調度品の製作等に携わった。慶安3年(1650)、江戸で没した又兵衛の遺骨は遺言により福井へ送られ、興宗寺のこの墓に納められた。享年73歳。
二代目勝重、三代目陽雲も絵を能くし、岩佐家代々の遺骨もこの墓に納められている。墓石の中には二つの骨壺があり、一方の表面には「荒木」の墨書が見える。
なお、興宗寺は、江戸中期以降は現在の西本願寺福井別院の東隣に在ったが、都市計画により昭和23年の福井大震災後、現在地に移転した。この墓の移転は昭和62年。元の位置は、ここより西北西220メートル。宝永小学校玄関前に碑が有る。
肝心なことが余すことなく記されている。数奇な運命のもとに生まれ育ったが、ここ福井が彼の安住の地だったのだろう。川越で出会った又兵衛に誘われて、私も知らずのうちに福井までやってきていた。福井藩の御抱絵師の岩佐派は又兵衛から勝重、陽雲と嫡系により三代続くが、貞享三年(1686)に6代藩主綱昌の改易に伴って御役御免となったようだ。
岩佐又兵衛は在世中から「浮世又兵衛」と呼ばれ、江戸期から明治にかけては「浮世絵元祖」であることが常識的な見方であった。しかしその後、浮世絵研究の権威である藤懸静也(東京帝大教授)が又兵衛の作品を分析して、次のように結論付けている。『増訂浮世絵』(雄山閣、昭21)で読んでみよう。
今これ等の又兵衛の画法を、後の浮世絵の画法に比較すると、浮世絵の法とは違うのであって、浮世絵派の先をなすものではない。画材の上からいふても、当世画を画かず、画法から見ても浮世絵の手法のもとをなすものではない。されば又兵衛は浮世絵に関係づけることはできない。況んやその元祖説をや。
ならば、浮世絵元祖は誰なのか。藤懸先生は次のように主張する。
世には岩佐又兵衛を浮世絵の元祖の如くに、考へたけれども、又兵衛は浮世絵に極めて関係の薄いことを説いた。その他、慶長寛永の多くの時様の風俗画家は、庶民芸術としての浮世絵の画系でないことも既に説いた。従つて浮世絵の大成者、浮世絵流の基を開いたものとしては、菱川師宣を推さなければならぬ。
こうして菱川師宣は「浮世絵の祖」(鋸南町ホームページ)として定着する。しかし近年、岩佐又兵衛の再評価の機運が高まり「浮世絵元祖」も復権しているようだ。浮世絵をどのように定義するかで見方も異なってくる。画材(題材)を主に考えれば岩佐又兵衛になろうし、木版画という技法に注目すれば菱川師宣ということになろう。
岩佐又兵衛に「柿本人麿図」(MOA美術館、国重文)がある。頬が豊かで実にいい感じの楽しそうな人麻呂である。これなら日本漫画史に重要な位置を占めてもよいくらいだ。
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