謡曲「江口」では、江口の君は最後に普賢菩薩となり、白象に乗って消え去っていくという。遊女としての罪業を自覚し、真摯な思いで仏に救いを求めたからこそ、成仏できたのであろう。罪深いといえば遊女以上に男どもに問題があると思われるが、罪業を自覚しない男の多いのは昔に限ったことではない。迷える遊女を救ったのは誰あろう、法然上人であった。
たつの市御津町室津の浄運寺に「遊女友君の塚」がある。
友君は室津のシンボル的な存在らしく、橋の名前にも採用されている。手前の女性が友君、向こうの黒衣は法然上人であろう。
法然上人と遊女については「遊女塚」で紹介したことがある。この図柄は神崎の遊女宮城と法然上人と同じ構図だ。室津の友君は法然上人にどのようなことを教化されたのか。『日本の伝説43兵庫の伝説』(角川書店)を読んでみよう。
源氏の武将木曾義仲の側室だった友君は、平家のために京都を追われ、ただ一人の従者を伴って西へ落ちて行った。船が室津に着いて浄運寺に身を落ちつけた彼女は、そこで港の女たちに礼儀作法や書道、歌の作り方や生け花などの身だしなみを教授していた。たまたま、讃岐へ流される途中の法然上人がこの港に着いたとき、友君は上人を訪れて無明の心を懺悔し、救いを求めた。法然は、
かりそめの色にゆかりの恋にだに
あうには身をも惜しみやはする
の一首を、紺紙銀泥の名号や袈裟とともに友君へ残して去っていった。
室津での友君は稽古事のお師匠さんのようだが、法然が与えた歌は遊女にこそふさわしい。かりそめの恋でさえ好きな人に会うためには命でさえ惜しまないものだ。ましてや仏の道に入るのに何のためらいがあるというのか。友君は尼になった。
室津は遊女発祥の地だという。誰がそのようなことを言ったのか。井原西鶴である。『好色一代男』巻五「欲の世中に是は又」に次のような記述がある。(『西鶴集・上』日本古典全集刊行会、昭和9)
本朝遊女のはじまりは、江州の朝妻、播州の室津より事起りて、今国々になりぬ。朝妻にはいつのころにか絶て、賤の屋の淋しく、嶋布織、男は大網を引て、夜日を送りぬ。室は西国第一の湊、遊女も昔にまさりて、風義もさのみ大坂にかはらずといふ。
室津に遊ぶ世之介は、遊女に香聞きをさせる。風流の分からぬ者ばかりだと思っていたが、どうも末座の女が気になる。
手前に香爐の廻る時、しめやかに聞とめ、すこし頭をかたふけ、二三度も香爐を見かへし、「今おもへば」といふて、しほらしく下にをきぬ。世之介言葉をとがめ、「此木は何と御聞候」と申、「正しくもろかづら」といふ。「さても名誉の香きゝかな」と、懐へ手を入又取出す、所をおさえ、
「いえもう、私なんかにできるわけないじゃないの。ただ、その木は江戸の吉原の若山太夫さまと関係ない?」
「そうだよ、その若山に逢ったとき、名残りにもらったものだよ」
「やはりそうね。私がふと言いかけたのは、備後福山のあるお方が江戸で若山さまにもらった香包(こうづつみ)だと、お袖に焚きしめていらっしゃったことなの。枕をともにした夜に、いつもよりうれしかったのが忘れられず、今思い出したところよ。」
「縁というのは不思議なものだな。その備後の方の十分の一でも可愛がられたいもんだね」
このように艶っぽい場面となっていく。『好色一代男』屈指の名場面であろう。(たぶん。ほとんど読んだことがない。)この章の最後は次のように結ばれる。
昔はいかなる者ぞとゆかし、世之介此女の心入をおどろき、様子をきけば、隠れもなき人の御息女なり、請出して直に、丹波に送りぬ、行方しらず。
遊女であっても、やんごとなき人は、さすがに奥の深さを感じさせる。室津の繁栄を象徴する話である。遊女を教化した法然上人は、一般住民の生活にも貢献している。
浄運寺の近くに「法然上人 貝堀の井戸」がある。
法然上人とのゆかりが説明板に書いてある。読んでみよう。
浄運寺から海側に降りた所にある貝堀の井戸は、室津に滞在中の法然上人が飲み水で困っている室津の人々のために、海辺の貝で掘ったという言い伝えが今でも残っている淡水の井戸です。
昭和初期には本当に海辺にあったらしい。海辺なのに淡水の得られる不思議な井戸の由来を法然上人に仮託したのだろう。遊女を開悟させた上人ならば、井戸なんぞたやすいものだということか。
室津は小さな町だが、語るに値する素材が凝縮されている。さすがは「本朝遊女のはじまり」の地である。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。