うちの近くに「汐見(しおみ)橋」というのがあった。なんでも昔は海が見えたので、そう呼んだらしい。今は干拓によって海は遥か彼方になった。海の見える風景は山の見える風景と同等ではない。海はどこまでも続いている。果てのない風景なのだ。
高砂市竜山一丁目に「観涛処(かんとうしょ)」がある。高砂市指定文化財(史跡)である。
旧字体の格調高い文字は、1つが1.8mの大迫力である。読んで字のごとく波が見える所だったようだ。もちろん今でも工業地帯の向こうに海は見えている。手前を新幹線が通過するのはよく見える。
自然石に刻まれた江戸期の大きな文字が珍しいというだけではない。その由緒には親子、主従の深イイ話があったのだ。
三文字の右に跋文が刻んである。筆者は永根伍石72歳。書いたのは天保7年3月である。書き出し部分はこうだ。
右観涛処三文字亡児奕孫遺墨
右の「観涛処」の三文字は、私の亡き息子、奕孫(つたざね)の遺墨である。奕孫とは姫路藩の儒者であった永根文峯(ぶんぽう)のことで、19歳の時の書である。父としては将来を嘱望していたが、32歳の若さで早世した。跋文の最後をこう締めくくっている。
噫今我独老矣姑勉哀痛題于余石
ああ、私は独り老いていくのだ。しばらくはつらい悲しみに耐えつつ、石の余白に跋文を記す。父伍石の思いは姫路藩家老・河合寸翁に伝わった。主君・酒井忠道公の許可を得て、この景勝の地に亡き息子の大書を刻むこととなったのだ。費用は寸翁が負担したという。
初め父の思い出の品だった息子の書は、家老の目に留まり、巨石に刻まれ、今や地域の宝として親しまれている。「観涛処」は永根文峯の名とともに末永く伝えられることだろう。親思う心にまさる親心。親心はうねる波の下、果てがないのである。