巨人伝説は日本各地にある。有名なのはダイダラボッチだ。各地で呼び名が若干異なっている。巨人だけにその姿を再現するのは困難だろうと思ったら、あった。水戸市塩崎町の大串貝塚ふれあい公園に「ダイダラボウ像」(15.25m)がある。『常陸国風土記』にも登場する大先輩の巨人である。
今日登場するのも巨人だが、どうも由緒正しい家柄の御出身のようだ。
岡山県勝田郡奈義町関本の国道53号沿いに「菅原三穂太郎満佐(すがわら さんぶたろう みつすけ)之像」がある。
なるほど菅原姓で衣冠束帯姿、これは何者なのか興味が湧く。像の台座の側面に趣意書がある。平成3年3月15日付の三穂太郎満佐公生誕八〇〇年記念事業実行委員会によるものである。読んでみよう。
菅原朝臣三穂太郎満佐亦三歩太郎兼実とも號す。菅原菅家は其先右大臣菅原朝臣道真公七世の裔孫、菅原朝臣従四位下知賴公、承暦元年美作守として下向、豊田庄に住するに仍て興る。其嫡菅秀才眞兼は美作国押領使となり、其嫡尚忠亦號是宗は民部介、その勢は国府を席捲す。室久米錦織郷秦豊永の女、亦、室の姉は久米押領使漆間時国の室也。尚忠の嫡民部介菅四郎仲賴は開発領主として高円邑に大見丈城を築き、近郷の武士団を糾合、美作菅家党の基盤を創る。三穂太郎満佐公は其嫡として養和元年誕生、母は二階堂藤原維行の女、長じて知仁勇萬人に優れ、在地で朝臣となり京都禁中を守護し玄蕃頭に任ぜらる。亦美作守として治世其武威は遠く備前備後備中亦因幡播州にも及ぶ。室豊田右馬頭の女、天福二甲午九月十五日に赤松久範佐用の地に戦闘死、行年五十二才。後頭は三穂明神に右手は梶並の右手明神と足は因州智頭の河野明神として祭られ、亦荒関明神杉明神三崎明神諾明神として崇敬、これ等は美作太平記作陽誌赤松氏文書津山市史中世編等によって知る事が出来る。満佐公の嫡有元筑後守忠勝、廣戸豊前守佐久、福光伊賀守周長、植月豊後守公興、原田日向守忠門、鷹取備前守佐利、江見丹後守資豊、亦説に弓削佐渡守忠文、垪和越前守資長、菅田志摩守佐季を加え、美作菅家党は夫夫を祖として累代団結親交を強め、文永弘安の役は鎌倉幕府御家人として博多に遠征、元弘建武の乱には帝を奉じ国難に殉じ党族を挙げて忠戦、尓来幾星霜戦国群雄割拠の時も他族からの侵掠を許さず、栄枯盛衰平成の御宇迠、一族繁栄し党族八十八氏家を数う。茲に満佐公生誕八〇〇年を記念し顕彰記念像を建立、公の遺徳を讃え後世に伝う。
菅原道真七世の孫という知頼であるが、おそらくは道真-高視-雅規-資忠-薫宣-持賢-永頼-知頼と続くとするのだろう。知頼からはこうだ。知頼-真兼-尚忠-仲頼-満佐と続く。道真公を初代と数えれば12代目となる。その満佐を祖として菅家七流が栄えていく。中世美作を代表する武士団、美作菅家党である。
満佐が赤松久範と戦って敗死した天福二年は1234年である。赤松久範は有名な赤松円心の祖父に当たる人物である。
像の近くに「三穂(みほ)神社」があり、事代主命とともに三穂太郎満佐を祭神としている。この神社は1180年頃に島根の美保神社の祭神の事代主命を分祀したことが創建とされている。
この神社は「こうべさま」ともいう。頭の神様だから受験にもよく効く。しかも祭神は菅原道真の子孫である。「必勝合格祈願」ののぼりが鮮やかである。
「こうべさま」と呼ばれるのは、伝説の巨人、三穂太郎が死んで屍体が四方に飛び散った時に、その頭部を祀ったからだという。ちなみに、胴体(あら)は奈義町西原の杉神社(あらせきさま)に、肩は智頭町土師の河野神社(にゃくいちさま)に、右手は美作市右手の三社大明神(右手大明神)にそれぞれ祀られているという。
この巨人、すこぶる大きく、那岐山に腰かけて瀬戸内海で足を洗い、京都まで三歩で歩いた、と伝えられている。だから三穂太郎という。本当のところは三穂から三歩へと話が大きくなったのだろう。
話が中世の武士から伝説の巨人へと飛躍したように感じるが、同一人物のことである。三穂太郎が巨人伝説と結びついたのはなぜか。『心のふるさと・美作伝説考』(島田秀三郎)の「伝説三穂太郎考」の項には、次のように記されている。江戸時代になり美作菅家党がかつての勢力を失ってしまった頃のことである。
落魄して見ると昔のよき時代がしのばれる。美作の菅家一族は他の小豪族よりも群を抜いていた。しかも、仇花には過ぎなかったが、天皇権力の奪回という日本歴史の一頁に関係のある元弘の戦いに、一族一党を挙げて参加したという矜持がある。何一つ報いられなかったこの先祖たちの心情は、誠心南朝に殉じた楠正成党に一片通じるものがあるではないか。この先祖たちの祖満佐こそ、時代が百年遅れておれば美作の楠正成であったかも知れぬ。正成は日輪の申し子である。満佐もまた天の星、地の霊、山の霊の申し子でなければならぬ。大蛇は氏族の首長の象徴である。奈義の山霊の大蛇の母から生まれたのが三穂太郎満佐である。この祖にして、はじめて流星のように消えた子孫たちが生まれたのである。
この輝ける御先祖に申し訳ない限りである。世は戦国であれば、また、家名を挙げる機会があろうが、今は無力な蚯蚓切りの百姓だ。だが、そこいらの水呑み百姓とは違っているのだ。どこが違っている。だから家柄だ。ここで満佐は菅家党の願望を担って大人様の伝説と結びついたのだろう。
満佐の子孫、有元佐弘らが後醍醐天皇の京都還幸を助けたことは『太平記』に記されている。その功により佐弘は従四位など、一族が大正年間に贈位されている。
楠公への対抗心、それが菅原満佐を巨人・三穂太郎へと成長させたのだという。菅家党の共通の祖である菅原満佐は禁中を守護する役目まで仰せ付かっている。さらに、南北朝期には一族の有元佐弘が後醍醐帝を助けて京都で戦死している。こうした記憶が重ねられ、京都まで三歩で歩いた巨人像が創り出されたのだろう。
美作の巨人は、常陸のダイダラボウのように『風土記』に記録された未確認生命体ではない。その正体は、武士団としての栄光の記憶、「誇り」だったのである。
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