教育は人類が営々と築き上げてきた叡智を次世代へと継承していくことである。若い世代、とりわけ学齢期の教育は人間形成に大きな影響を与え、地域の文化水準をも規定していく。
日田市淡窓二丁目に国史跡の「咸宜園(かんぎえん)跡」がある。
ところで、岡山県や長野県は「教育県」と自称している。岡山県には江戸時代前期の庶民の学校、旧閑谷学校がある。また、明治時代の初め頃、全国1,505か所の私塾のうち144か所は岡山県にあり、全国一位であった。長野県には近代教育の黎明を象徴する旧開智学校がある。また、江戸末期、全国15,560か所の寺子屋のうち1,341か所は長野県にあり、全国一位であった。
確かに、それはそうなのだろう。だが、数や建物があることが問題ではない。問われるべきは教育の内容・方法であり、その後に及ぼした影響である。ここ日田の咸宜園跡を訪れると、本当の教育県は大分県ではなかったかと思われるのである。まずは、平成24年3月に日田市教育委員会が作成した説明板を読んでみよう。(一部抜粋)
豊後日田の儒学者・廣瀬淡窓(1782-1856)は豆田町の豪商廣瀬家の長男として生まれたが、生来病弱のため家督を弟・久兵衛(きゅうべえ)に譲り、自らは学問教授の道に進んだ。文化2年(1805)長福寺(ちょうふくじ)学寮を借りて開塾、その後「成章舎(せいしょうしゃ)」「桂林園(けいりんえん)」を経て、文化14年(1817)淡窓36歳のときに、自ら幼いころに養育され、俳人として著名であった伯父月化(げっか)の居宅・秋風庵(しゅうふうあん)の隣に塾を構え、「咸宜園」と呼んだ。咸宜園の「咸宜」とは『詩経』からとった言葉で、「ことごとくよろしい」という意味である。
入門時に身分・年齢・学歴を問わない「三奪法(さんだつほう)」、学力に基づき等級別に評価した「月旦評(げったんひょう)」、門下生に塾の運営に関わる役割を与えて社会性を身につけさせる「職任制(しょくにんせい)」などの独自の教育手法が評判となり、全国から多くの門下生が集まった。現在も4,600名を超える「入門簿」が残されており、著名な人物に、大村益次郎、長三洲(ちょうさんしゅう)、上野彦馬、清浦奎吾、横田国臣(よこたくにおみ)らがいる。このほかに淡窓の日記などに名前が記された門下生を加えると、咸宜園で学んだ者は5,000名を超える。門下生の多くは咸宜園で学んだ後に、藩校の教授となったほか、自ら私塾を開いた。あるいは、明治学制発布後に学校の教師となり、近代教育の発展に貢献した。咸宜園は淡窓没後も弟や義子、門下生に引継がれ、明治30年(1897)に閉塾するが、江戸時代の私塾としては最大の規模を有していた。
廣瀬淡窓は偉大な教育者である。「ことごとくよろしい」という寛容さ、「三奪法」による学びに向かう姿勢づくり、「月旦評」による適切な評価、「職任制」による集団づくり、いずれも近現代の教育が大切にしてきた教育方法である。
私塾といえば「適塾」「松下村塾」も有名だが、その存続期間や門下生の人数において、「咸宜園」は日本最大の私塾である。門下生に著名人が多いことも「適塾」「松下村塾」に負けていない。
兵制の近代化を進めた大村益次郎、学制の基礎を築いた長三洲、写真の開祖上野彦馬、第23代内閣総理大臣清浦圭吾、長く大審院長を務めた横田国臣。近代日本の形成に咸宜園の果たした役割は大きい。特に、咸宜園の教育が長三洲を通じて、現代へと続く学校制度の基礎となっていることは、大分県が教育県であることの証左となろう。
廣瀬淡窓は教育者であると同時に経世家であった。時代の流れを読んで改革の必要性を論じていた。著作『迂言(うげん)』「兵農」の章に次のような記述がある。
乱世は、小国は大国に併せられ、弱国は強国に役せられ、同列の諸侯も、後は君臣の勢をなすに至る。これ小国の武士皆腰抜けたるには非ず。何分にも、少きは多きに敵せざるなり。故に武士の意気地のみを張りつめても、戦士を多くするの術なくては、乱世には、人に降参するより外はなきなり。扨戦士を多くせんと思はば、農兵を用ふるに若くはなし。
国の強さは兵の数だという。淡窓がこれを脱稿したのが天保13年(1841)である。太平の世に夢をむさぼっていた武士階級に覚醒を促していた。「国君ヨリ群臣二至ルマデ其行儀尊倨高大二過ギタリ」と大名を痛烈に批判している記述もある。
この『迂言』を肥前大村藩第11代の大村純顕(すみあき)が読んで大いに肯首し、但馬出石藩仙石氏第7代の仙石久利(ひさとし)に「こいば読んだとら仙石騒動のようなことは起きんよ」と薦めたという。
刊行は安政2年(1855)である。国民皆兵の時代は近付いていた。偉大な教育者が兵士の増強を主張している。「教え子を戦場に送るな」と批判してはならない。時代は近代化を求めていたのだ。
淡窓は安政3年(1856)に亡くなる。享年75。それから日本は激動の時代を歩むこととなる。己れの力を信じて努力し世界に冠たる国家を築き上げた一方で、己れの力を過信して困難にも直面している。今こそ先生の説いた敬天思想を見直し、人としての謙虚さを持つべきなのだろう。教育県大分の先人に学ぶことは大きい。
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