歌舞伎十八番に『暫(しばらく)』がある。そのヒーローは特異な髪型をしている。私は蟹の変化した姿かと思った。頭の横から5本の足が出ているのである。
それは蟹ではなかった。「五本車鬢(ごほんくるまびん)」という荒事で使用される鬘(かつら)であった。この『暫』のヒーローこそ鎌倉権五郎景政である。
茨城県牛久市桂町に「鎌倉権五郎景政之墓」がある。
手前が新しいお墓で旧墓碑が後ろにある。権五郎の墓はここだけではなく、三重県鈴鹿市矢橋町の大日堂跡、長野県飯田市上郷飯沼の雲彩寺にもあるという。神奈川県鎌倉市坂ノ下の御霊神社は鎌倉権五郎神社ともいい、権五郎を祭神としている。ゆかりの地は各地にある。
伝説の要素が強い人物だが、伝説として語り伝えられるほど親しまれたということだ。いったいどのような武将なのだろうか。
牛久市桂町の金剛院の境内に「鎌倉権五郎景政追悼碑」がある。
牛久市は昭和61年に市制を施行するまで牛久町だった。牛久町が権五郎の追悼碑を建立しているので読んでみよう。権五郎の伝説が語られている。
景政は通称権五郎、父祖が鎌倉を領有したので姓となる。後三年の役に源義家に従い清原武衡を征し大功ありしも敵士鳥海弥三郎に右眼を射られて屈せず窮追これを斬る。時に景政十六歳。
口碑によれば鎌倉への帰途、少騎潜行してこの地に来たり、とある橋畔にて従者三浦為嗣をして矢を抜かしむ。為嗣は景政の額を踏み双手をもって抜かんとす。景政無礼を責む。為嗣深く謝し懇ろに抜く。橋畔忽まち鮮血に染めしをもって赤井橋の名出でしという。
主従疲れ果てゝ桂の里に辿りつき、とある農家に一夜の宿を乞いしに、すげなく断わられ三代滅亡と言いすてゝ立ち去り、闇夜に聖伝寺の燈火を目ざして非業の最期を遂ぐ。
里人深く憐れみ堂宇を建てゝ祀る。道筋に白旗山矢の根不動、赤井と片目の魚、権五郎堂宇跡、聖伝寺跡等の遺跡現存し語り伝いて九百年。
景政の心は、今なお里人の心に活きている。然るに、今や地形の変貌甚しく遺跡の旧態を保ち難きを憂いこれを誌す。
昭和四十五年四月牛久町これを建つ
牛久町長 宮本進 題額
茨城県遺跡調査委員 吉田耕平 稿書
鎌倉景政は平良文の流れと言われ、景政より後の時代に登場する大庭景親(源頼朝の敵)、梶原景時(源頼朝の味方)と同族である。
景政(正)は後三年の役(1083~87)で、源義家について戦い手柄を立てた。横手市金沢中野の金沢公園には「景正功名塚」がある。
鎌倉への帰途、清原方の鳥海弥三郎(とりみやさぶろう)の放った矢を右目に受けてしまうが、ひるむことなく弥三郎を斬り倒す。怪我の手当てをしようと景政は、清水の湧いている池を見つけて目を洗い返り血を落とした。これが「おみたらしの池」である。
ちなみに、おみたらしとは「御手洗」で、神社の手水舎のように手や口を清める場所のことである。地図上では池があるように表示されているが、私が訪れた時には水がなかった。
三浦為嗣(みうらためつぐ)は、源頼朝の挙兵に一身を捧げた三浦義明の祖父にあたる為継(ためつぐ)のことである。三浦氏は桓武平氏良文流で鎌倉氏と同族である。
為嗣は、景政の目に刺さったままになっている矢を抜こうと、顔に足をのせた。すると、景政が「何すんじゃコラ、矢で死ぬなら武士らしくてかっこええが、顔を足で踏まれるのは俺のプライドが許さん!」と言う。
『奥州後三年記』で原文を読んでみよう。
相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふものあり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてゝたゝかふ間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負たりとてのけざまにふしぬ。同国のつはもの三浦の平太郎為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら、景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、弓箭にあたりて死するはつはものゝのぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふまるゝ事あらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかゞめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやういよ/\ならびなし。
顔を踏んで矢を抜こうとした為嗣に「ぶっ殺したろか」と息巻いている。さすがは誇り高き武士だ、と見ることもできるし、そんなこと言ってる場合か、とも言える。
無礼を責められた為嗣は膝をかがめて丁寧に矢を抜いた。その場所が乙戸川(おっとがわ)の赤井橋である。おみたらしの池の北東すぐの橋だ。
抜いた矢は近くの「矢の根不動尊」に納められた。おみたらしの池のすぐ上の丘にある。
矢を抜いた景政は、激しい衰弱に見舞われていた。馬の背にもたれながら、夢うつつというか、うつろな状態で坂を上った。この坂を「うつつ坂」という。
この坂を上ると「牛久大仏」が見える。ウルトラマンを思い出す風景である。鎌倉権五郎景政にも見せてやりたかった。景政はこの丘を越えたところに流れる桂川で力尽き倒れるのである。
この物語は歌舞伎の『暫』とは何の関係もない。打ち首に待ったをかけるヒーローにふさわしい「つわもの」は誰か。それが、目を射られてもひるまず、誇りを失わなかった「つわもの」、鎌倉権五郎景政だったのである。
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