景清は尻もち四郎つんのめり(誹風柳多留四二17)
「待たんかい、コラ」平家方の悪七兵衛景清は、逃げようとする源氏方の三保の谷四郎(美尾屋十郎)の錣(しころ、兜で頸部を守る部分)をつかんだ。四郎は渾身の力で前へ進む。景清も負けじと手に力を込め足を踏ん張る。有名な錣引(しころびき)の場面である。
ブチッ!双方、思い切って踏ん張ったら、錣がちぎれてしまった。その瞬間、景清はドスンと尻餅をつき、四郎は前へつんのめったというわけだ。
石岡市国府五丁目の平福寺に「景清之墓」がある。
景清については、宮崎市の景清廟、美祢市の景清洞、近江八幡市の影清の背くらべ石を紹介した。今日はさらに東に進んで茨城県、常陸の景清伝説である。まずは、石岡市教育委員会の説明板を読んでみよう。
境内には景清の墓と伝えられる五輪塔が存在し、享保年間(一七一六~一七三五)の古文書によると「平福寺の景清観音堂は、先年岩城内から引き立て置いたものである。」とある。この景清とは平安末期の武将である平景清(藤原景清)のことで、源平の戦いでの活躍と波乱に満ちた生涯は、能の舞台で演じられ、歌舞伎十八番の一つとしても知られている。景清は石岡で誕生したという伝承があり、この景清の墓の他にも、市内には、産湯をつかった室ヶ井の水(府中六井の一つ)や貝地の景清塚など、悲運の勇将景清の面影が残る。
景清は石岡で生まれたのだという。確かなことは分からないにしても、景清伝説の地であることは確かだ。では、なぜ、この地に伝説が生じたのか。
景清には自ら目を見えなくしたという伝説がある。そこから盲人や琵琶法師との結びつきが生まれた。琵琶法師は仁明天皇第四皇子人康(さねやす)親王を祖神としている。『日本架空伝承人名事典』(平凡社)の「景清」の項を読んでみよう。
景清が日向や常陸に住んだとされるのも、それが日の立つ国、日に向かう国の光明をイメージさせるからで、そのことは当道(とうどう)座(平家語りの琵琶法師の芸能座)の祖神、常陸宮人康(さねやす)親王が日向に家領を持ったとする伝承(『当道要集』ほか)にも通じている。
日向宮崎には「景清廟」があった。そして常陸石岡にも「景清之墓」がある。日出ずる処と日没する処に景清ゆかりの地があるのは象徴的だ。光を求めたのは琵琶法師だけではない。現代に生きる私たちも先の見えない中で光を求めている。景清への信仰は今こそ見直されるべきではなかろうか。
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