「反知性主義」という用語が流行っている。「沖縄の新聞は潰さないといけない」など、その代表的なものだ。自分と対立する考えに対して、客観的な論証をしようとはせず、「消えてくれ」と言わんばかりの体である。相手と折り合いをつけて、よりよい社会を築くための方策を探ろう。そんな考えは、まったくない。
安保法制反対のデモが盛り上がっている。これに対して反知性主義陣営は、「大半がアルバイト」とつぶやいたそうだ。近年は大規模なデモは聞かなくなっていたが、多くの人が声を上げる状況は今、確かにある。
自分たちの生活を守りたい、生きていくための意思表示は今も昔も変わらない。江戸時代の百姓一揆もそうだ。今と異なるところがあるとすれば、それは死を覚悟しての意思表示であった。
姫路市夢前町古知之庄(ゆめさきちょうこちのしょう)に「義民滑(なめら)の甚兵衛塚」がある。
参加者が1万人余という、姫路藩を揺るがした全藩一揆である。「姫路藩寛延一揆」と呼ばれる。近ごろリニューアルした姫路城を眺めると、その威容は周囲を圧倒しており、御上に盾突くなど思いもよらぬ盤石な政治体制であったかのように思える。
西国将軍・池田輝政のもと、52万石を誇った姫路藩に、なぜ一揆がおきたのか。後で紹介する置塩神社の説明板が分かりやすいので引用しておく。
寛延二年(一七四八)姫路藩では凶作続きと藩の悪政により極端な財政不振となり、年貢米をきびしく取り立てようとした。農民はたびたび年貢米の減免を願い出たが聞き入れられず、ついに年貢米の徴収の機能を停止させるために立ちあがった。
寛延二年正月二十八日、置塩郷の百姓達は日頃人望のある滑の甚兵衛を先頭に、塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門らと共に結集して立ちあがった。一揆の軍勢は一万余の大群衆となり、姫路藩から鎮圧に向ってきた藩兵を蹴散らしながら、大庄屋、庄屋、御用商人等、六十余軒ちかくを打ちこわし、姫路城にせまる勢で進んだが、二月二日蒲田村の誓福寺で、藩から依頼された船場本徳寺の御蓮枝の説得により解散した。
その後一年半におよぶきびしい取調べの結果、一揆のおもだった者は磔、獄門、遠島、国払いの刑に処せられた。寛延三年九月二十三日、市川の河原にて滑の甚兵衛は磔、塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門は獄門となりその遺骸は返されず、法要を行なえず、ようやく三十三年後の安永十年(一七八一)ささやかながらも村人によって供養碑が建立され、昭和二十九年(一九五四)に置塩神社が創建された。その尊い志は、未来永劫に郷土の誇りとして伝えたいものである。夢前町
池田輝政の死後、姫路藩は分割され15万石となり、藩主が頻繁に交代することとなる。池田氏の後は、本多氏、奥平家松平氏、越前家松平氏、榊原氏、越前家松平氏、本多氏、榊原氏、越前家松平氏というめまぐるしさだ。
越前家松平氏の松平明矩(あきのり)が姫路に移封となったのは、寛保元年(1741)である。越前家は徳川一門の名流だが、そんな権威だけで民衆が平伏するわけではない。民への慈しみがあってこそ、世は治まるというものだ。
ところが、越前家の姫路藩政はうまくいかなかった。そもそも莫大な借財を抱え、その整理を怠っていたこと。債務を租税増徴で償還しようとしたこと。これに加えて、激甚災害ともいうべき台風の被害があったこと。朝鮮通信使の接待を命じられ、さらに借財が重なったこと。
失政に不運が重なったところに、藩主明矩の急死という不幸が襲う。世継ぎの若君はまだ幼い。人々の不安が高まったところに、年貢納入の督促が行われた。寛延元年(1748)12月21日、ついに印南郡の百姓が蜂起した。当局は一揆の代表者を逮捕したものの、納期の猶予を認めたので、一揆はいったん収まったかに見えた。
翌二年1月16日、印南郡と加古郡で一揆が再発し、やがて飾磨郡にも拡大する。ここで前之庄組古知之庄村の百姓甚兵衛が登場する。滑の甚兵衛である。彼の率いる一揆勢は28日に蜂起し、大庄屋宅を潰すにとどまらず、藩兵を打ち破るほどの勢力に拡大した。参加者約1万人という西日本最大の一揆は、2月2日に船場本徳寺の仲介を受け入れ解散した。
姫路藩の力量を見限った幕府は、大坂城代に首謀者の逮捕、取調べを命じる。滑の甚兵衛には、4月6日に逮捕の指示があり、大坂町奉行所で取調べを受けることとなった。長く厳しい取調べが続き、翌三年9月23日になって、甚兵衛は大坂より姫路に護送され、市川の河原で磔刑に処せられるのである。
罪人ゆえに墓碑さえ建てられなかったが、三十三回忌の安永十年(1781)に一字一石の写経をして埋め、「浄土三部妙典塚」と刻んだ供養塔を建立した。それが上の写真の塚である。
姫路市夢前町古知之庄に「置塩神社」が鎮座している。
戦後、民主主義の世、昭和29年に至って甚兵衛たちは、神社に祀られ義民となった。姫路藩寛延一揆は、圧政への抵抗権を認められぬ者たちの、命を代償とした意思表示であった。
ひるがえって今の世はどうなのだ。目の前で議論されている安保法制も沖縄の辺野古問題も、議員諸氏に任せるしか方法がないのだろうか。次の選挙まで意思表示する機会はないのか。声なき声は聞こえない。ささやかながら、この一文は私の声として発したいと思う。
moriさま
丁寧なコメントをいただき、感謝しております。為政者は人々の上に立つ者ですが、下々とは信頼関係で結ばれていなくてはなりません。それを自己都合で政策決定すると、信頼は崩れますよね。現代の我が国が抱える問題についても、情報を吟味する力が、私たちにも求められていると感じました。ありがとうございました。
投稿情報: 玉山 | 2018/10/02 21:00
NHKの新日本紀行を見ていると、郡上八幡では昔大きな一揆があったとナレーションがあり、Wikipediaを読むと、幕府の重役が処分されるほどの騒ぎだったとの詳しい説明があります。長い文章ですが、引き込まれて読んでしまいました。一揆を主導する派も一揆を避けようとする派も金森藩が改易となり浪人となった藩士たちもそれぞれに辛い立場であることがひしひしと伝わってきました。文章は事実を淡々と述べられているのですが、小説のように引き込まれます。
藩としては今以上の収入が欲しいが、農民の側は病虫害、日照り、長雨、冷害など様々な要因で凶作になり、年貢が納められない。日本全国で百姓一揆が起きるのは当然のようです。島原の乱も原因は過酷な年貢の取り立てであったため、藩主は切腹ではなく打ち首になった聞きました。
私の田舎はどうか、と調べると因伯一揆という大きい一揆の説明があります。
これまでは江戸時代はすばらしい時代だと思っていました。 寺子屋は現代の小学校以上の比率で存在し、明治維新の原動力となったであろうし、お茶、お花、歌舞伎、俳句、川柳、浄瑠璃、浮世絵、落語、浪曲など庶民文化が花開いたし、寿司、うどん、そば、てんぷらなどなど日本料理は江戸時代にできたと聞きました。
しかし、農民のことを考えると、藩が暴力的に年貢を集め、米が集まる大阪や江戸など都市は米の消費地のため、江戸文化が花開いたはなやかな面と、逆に田舎の大半は奴隷的な農民生活があったと思います。
現代の若者がチャラチャラした生活をしているのを見ると、これは許されることだろうか、と考えてしまいます。 アジア、アフリカの若者、中南米や東欧など不幸な人々はたくさんいます。 食料自給率40%の現代の日本は虚構の中の繁栄ではないだろうか、と考えたりします。
貿易戦争の影響で経済が破たんすれば、日本人はお取り潰しになった藩士のように突然乞食の生活をしなくてはならないのではないでしょうか。
投稿情報: mori | 2018/10/02 09:32
moriさま
松本藩の一揆について詳しく教えてくださり、ありがとうございました。とても勉強になります。経済と暮らし、現代にも通じることが多々あることが分かりました。
投稿情報: 玉山 | 2017/10/11 23:36
10月4日に松本市の近くにある貞享義民記念館へ行ってきました。 建設から30年経過して今では行く人がいないようでした。 資料がたくさん残っていてじっくり読むほどの余裕はありませんでした。勿論、古文書は読めません。なぜ、これほど苦しみがあったのかと考えました。
昔は農薬もなく、冷害や長雨、病気や害虫で豊作より凶作の方が多かったのではないかと思います。 藩の側も農民からの年貢に依存しているため年貢が減るのは困る。現代サラリーマンのように昇格昇給がない。家柄身分で石高は一定。江戸時代でも次々と新製品の絹織物、輪島塗の漆器など欲しい物は次々と出てくる。家の修理は必要だし、子供の養育費も必要。幕府の要求で参勤交代で支出が増える。 年貢を増やしたい。
太閤見地で村の石高が明確にされているから、藩は一石を三斗五升に増して農民に増税した。 これでは農民は生きていけないと百姓一揆が起きるのは当然であった。
藩主に代わって城を預かる家老は責任上一揆を収めねばならない。 その後、誰が扇動したかを代官に問い詰めれば、結局は農民を代弁する庄屋と藩の側を代行する組手代の対立の構図となる。
16歳の娘まで殺害した残忍さは、普段から組手代に従わない庄屋を徹底して極刑のしたものと思う。現代でも対立やいじめは地位が接近して利害関係がある者同士となる。軍隊でも、現在の企業でも同じである。
詳細は違うのですが、百姓一揆は松本藩も姫路藩も生きるか死ぬかの年貢を間に置いた経済闘争の印象を受けます。
投稿情報: mori | 2017/10/11 20:44