あけましておめでとうございます。今回は静岡とタイのアユタヤを結んでお送りいたします。新春スペシャルの国際リポートです。
「微笑みの国」とは、タイ王国の形容である。明るく優しいイメージで日本人からの好感度がとても高く、海外旅行先としては東南アジアで一番人気だ。日本国内にタイ料理店は多く、もはやパクチーの味はポピュラーと言ってよい。先日行ったジェラート屋にもパクチー味があった。ここまで浸透しているとは。
「日タイ友好」を掲げた第30回「長政まつり」が、昨年の10月11日に静岡市内で行われた。タイの舞踊、トゥクトゥクという乗物、そしてタイ料理と、タイの雰囲気満載の楽しいイベントである。長政とは誰か。今日の主人公、山田長政である。
静岡市葵区宮ケ崎町の浅間通りに「山田長政像」がある。宮ケ崎町といっても南端で、馬場町に近いところにある。高岡銅器の作家熊谷友児の制作により、平成12年に完成した。最近の政治家のような風貌をしているが、服装が長政らしさを醸し出している。
この地における山田長政について、飯塚傳太郎『静岡市の史話と伝説』(松尾書店)は、次のように記している。
山田長政は、天正十八年頃(一五九〇)駿府馬場町の紺屋津ノ国屋山田友山(九平次)の倅に生まれ、母は藁科村寺尾惣太夫の娘という。小さい時から家の職業をきらい、織田信長の後裔と称し、勇ましい事のすきな子供であった。しかしいつも遊ぶ時は弱い子の味方になったので皆から親方にされ、中でも戦さごっこが好きで安倍川などで大暴れをした。青年になり、いくらか世の中が判ってくると、武士になりたいと思って沼津の殿様の駕籠かつぎとなった。
子ども時代の様子が生き生きと描かれているが、おそらくシャム(タイ)での活躍から類推したのだろう。長政は、在留日本人のリーダーとなり、日本人部隊の指揮官として活躍した。当然、子どもの頃にもその片鱗をのぞかせていたに違いない。そう考えたのだ。
長政が朱印船でシャム(タイ)に渡ったのは、慶長17年(1612)頃という。当時シャムはアユタヤ朝で、首都アユタヤには日本人が多く暮らしていた。長政は日本人町の首領となり、義勇軍を率いて国王ソンタムを援助した。1621年(元和7)、王が幕府に使節を派遣した際には添書を作成し、日タイの友好に尽力した。長政に対する王の信任は絶大で最高官位まで授けられた。
ソンタム王の死後に生じた王位継承の争いに巻き込まれ、リゴール総督に左遷される。リゴールはタイ南部のナコーンシータマラートである。ここで戦いで受けた傷に毒を塗られたことにより亡くなった。
このような山田長政の生涯をどのように総括するのか。人の評価は死後に定まるというが、時代によって評価は移り変わっている。現代は「長政まつり」に見られるように、日タイ友好の象徴的存在となり、国際理解の啓発に貢献している。
しかし、かつては別の評価があった。昭和16年(1941)には池田宣政『南進日本の先駆者・山田長政』(三省堂)が発行されている。序文で著者は次のように総括している。
つまり、南進日本の先駆者でもあり、その心の中には、大東亜共栄といふ大理想の芽生えがあったといってもいゝのである。
当時の日本では、南進論が主張され「大東亜共栄圏」という概念が広まりつつあった。実際の軍事行動でも北部仏印進駐に続いて、南部への進駐に踏み切ろうとしていた。そのような時流にあっては、タイを舞台に政治面・軍事面で活躍した山田長政は、大東亜共栄というビジョンの「先駆者」に他ならない。
アユタヤ朝の王位継承争いでは、長政は王弟派に対して王子派についた。このことについては、次のように解釈された。
彼はまた、すぐれた日本精神を暹羅(シャム)国人に伝へようともした。国王の王子の教育者となったのも、その一つのあらはれであった。
早くも17世紀に皇民化教育が実施されていたと解釈している。これは長政にとって心外なことだろう。長政は、実際の思いとは関係なく、大日本帝国を背負わされているのである。
現在のタイでは、山田長政をどのように捉えているのだろうか。2010年にタイで「Yamada The Samurai of Ayothaya(山田 アユタヤの侍)」という映画が製作・公開された。山田長政は日本人俳優が演じたが、内容は歴史超大作には程遠い。戦闘シーンで演じられるムエタイを楽しむアクション活劇である。
つまり、タイの人々にとって山田長政は、「日本のサムライ」以上の存在ではないようだ。歴史に登場する多くの外国人のうちの一人に過ぎないのだろう。
いや、首都バンコクで関心がないだけで、長政ゆかりのアユタヤでは有名かもしれない。そこで、アユタヤの日本人町跡からのリポートに切り替えよう。
タイ王国アユタヤ県に「アユタヤ日本人町跡と山田長政」という日本語の記念碑が建てられている。国際リポートと言ったが、実は1989年の撮影である。ネットで検索すると、今では碑の周囲がきれいに整備され、資料館もできていた。碑文に何が書かれているのか、読むことにしよう。
アユタヤ日本人町跡と山田長政
アユタヤは西紀1350年より1767年まで417年間タイ国の首都であった。この間第16世紀後半より外国人の渡来者は漸増し彼らは貿易や布教に従事した他義勇兵として王朝に仕えるものもあった。当時日本政府は朱印状(外国貿易に従事する許可書)を発行して貿易を奨励したが朱印状を所有しない交易船も東南アジア方面の貿易に従事していた。これらの貿易船のうちタイの都アユタヤに来たものも多く彼らは諸外国人と同様国王から居留地を与えられた。アユタヤには時代により800人から3,000人の日本人が居たと伝えられ更にタイ、中国、ヴェトナムなどの従業員を加えるとこの日本人町に8,000人の人が居たこともあると伝えられている。そして次の人々がその首領であった。オークプラ純会(1600年~1610年)、城井久右ヱ門(1610年~1617年)、山田長政(1617年~1630年)、糸屋多右ヱ門、平松国助(1633年~1640年)、木村半左ヱ門、アントニオ善右ヱ門(1640年~?)。この内でも山田長政(静岡県出身と伝えられている)は日本人義勇隊長として実力者となりソングタム王の寵愛を受けオークヤー・セーナーピムックの爵位を授けられた。1628年王の死後長政は二人の王子に忠義を盡したがナコン・シータマラート(南タイ)に叛乱が起きたので都を離れ叛乱軍平定後同地の太守となったが程なく同地で客死した。1935年(昭和10年)バンコクに設立せられた泰日協会はオランダ東インド会社の文献に基づきこの地旧日本人町跡を発見しその内約7ライ半(12,000平方米)を入手することが出来た。それ以来泰国日本人会の協力援助をえてこの遺跡の保存に当っている。
1972年12月11日 泰日協会長 ピヤ・マバイサワン
さすがに現地の情報は詳細だ。長政以外にも多くの人名が記されている。その多くは貿易あるいは物流に従事していた。鎖国政策が実施されなかったら、また違った歴史が展開していたはずだ。うまくいけば貿易立国がもっと早くに実現していたかもしれない。
現地で購入した小冊子『AYUTTHAYA』(Wira Amphansook,1983)には、どのように記されているだろうか。
The Japanese,who had come to Siam in the Ayutthaya period,made efforts to establish commercial relations between Japan and Siam and advised the King of Siam to send an envoy to Japan. Yamada Nagamasa,one of well-known Japanese took a ship to Siam. At that time Siam was in a turmoil and he soon began taking an active part in the upheaval and rose to a high post in the Siam government. (Phya Senaphimukh) The Japanese lived together here,so this place was the symbol in memory of good understanding between the two countries-Japan and Siam.
It should be noted further more about the relations between Japan and Siam below.
The Japanese served in the Thai army of King Naresuan the Great,when he engaged in a combat with Maha Upracha,the Burmese Crown Prince in 1592. Yamada Nagamasa commanded the King's bodyguards in the reign of King Songtam,and helped this King's son (Jetta) to ascend to the throne; but all his efforts ended in failure and he then died of poison. King Ekatotsarot and King Songtam exchanged embassies with the shogun of Tokugawa. In the reign of King Prasat-thong,the official relations between the two countries came to an end.
At present,the Thai government and the Japanese government exchange embassies each other in the form of both official relations and for purposes of trade. It is sure that our commercial relations are really based on frank sympathy and fairness.
アユタヤ朝時代にシャムに来た日本人は、シャムとの間に商取引を成立させるよう努力し、国王に対して日本に使節を送るよう助言した。山田長政はよく知られた日本人の一人で、船に乗ってシャムにやって来た。当時シャムは動乱のさなかだったが、彼はすぐに活躍し始め、シャム政府の高官(オークヤー・セーナピムック)に登り詰めた。日本人はここに、まとまって住んでいた。したがって、この場所は日本とシャム二国間の良好な関係の象徴であった。
以下の日本とシャムの関係についても注目してほしい。
1592年にビルマの皇太子と戦った時、日本人はナレースワン大王のタイの軍隊に加わった。山田長政はソンタム王の治世に近衛兵を率いて、王子ジェッタの王位継承を手助けした。しかし、彼の努力は失敗に終わり、その後、毒のため死んだ。エーカートッサロット王とソンタム王が徳川将軍と大使を交換した。プラーサートトーン王の治世に、両国の公式な関係が終焉を迎えた。
現在、タイ政府と日本政府は、公的関係および商業目的のため、互いに大使を交換している。私たちの商業関係は本当に率直な共感と公平性に基づいていると確信している。
このくらいが等身大の山田長政なのだろう。アユタヤ朝の高官となり、王位継承に関与したが失敗した。決して日本精神を優れているからと押し付けたりしなかったはずだ。
政治や軍事で一時的ながらも成功を収めた長政の活躍は、おそらくレアケースで過大視すべきものではない。留意しておきたいのは、長政の成功は人心の掌握によって成し遂げられたことである。日本人町の住人は、現地の言葉や風俗を理解して多様性を尊重し、うまく商取引へと結びつける努力をしたに違いない。
違いを認めて活かす姿勢は今日にあって、ますます重要視されている。山田長政は多様な人々との協力関係を構築できた、グローバル人材の一人だったと評価してよいだろう。
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