「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」は、我が国の戦後史に残る名失言である。発言したのは大宰相として知られる吉田茂。昭和25年5月3日、東京大学の南原繁総長のことを「曲学阿世の徒」、つまり、真理を曲げて世間におもねる学者だと非難したのである。
政治家が学者を非難するのはしばしばあることで、古くは美濃部達吉博士の天皇機関説事件、近くは一昨年の安保法制騒動の際に自民党副総裁が「憲法学者の言う通りにしていたら、日本の平和と安全が保たれたか極めて疑わしい」と発言したことだ。
敗戦から4年を経た頃から、講和問題がクローズアップされるようになった。論点は、アメリカ主体の単独講和か、中国やソ連を含めた全面講和か。南原総長ら知識人の多くが全面講和を主張し、左派政党や学生や労働者も運動方針に掲げていた。この動きに吉田首相はイラついて、東大総長を非難したのだ。
本日は、そんな時代に、全面講和と非武装中立を主張した小さな左派政党を紹介しよう。
岡山市北区御津金川に「黒田壽男像」がある。昭和58年、出身の地に建てられた。
昭和11年、無産派として衆議院議員に初当選するものの、翌年、人民戦線事件と呼ばれる左翼弾圧で検挙された。戦後は日本社会党の結成に加わったが、昭和23年、予算案をめぐる対立から除名処分となった。黒田は同志とさらに左派に位置する「労働者農民党」を結成し党主席に就任した。だが党勢は思うようにならず、昭和32年に社会党に復帰した。
冒頭で紹介した単独講和か全面講和かで世論が二分されていた時代のことである。昭和24年11月11日、労働者農民党を代表して黒田は、吉田首相に対する質問で次のように演説した。
わが党は、憲法の戦争放棄の條章が、絶対的な戦争放棄、徹底的な無軍備、非武装を宣言したものであると理解いたしまして、この無軍備、非武装の規定は、講和会議後のわが国において、次のごとき政策として具体化さるべきものであると考えるものであります。すなわち、一切の軍隊をわが国に置かない、一切の軍事施設をわが国に設けない、武器の生産をしない、武器の運搬もしない、軍事的ファッショ勢力を一掃する、警察の軍隊化を厳重に排斥する、講和会議成立後において、わが国はかくのごとき立場において国際社会の間に伍すべきであり、集団保障を受けることによって冷たい対立に巻き込まれる危険を冒すよりも、むしろ絶対的戦争放棄の精神を守り、永世中立の道をわが道として行くべきであると思うのであります。これはおそらく、わが国の国民大多数が、素朴に純粋にこのことを願っておると、私は確信するのであります。私は、ここに繰返し、わが党の主張は全面的講和による永世中立主義の確立ということにあることを明らかにしておきたいと思うのであります。
これが黒田の目指す未来の姿であった。なんと素直な憲法解釈であろうか。「永世中立」が美しく感じられるのは、おそらくスイスやオーストリアのイメージのせいだろう。しかし、どちらも国軍を持ち、決して非武装中立ではない。東西冷戦が激化したその後の歴史や、アメリカの安全保障のもとに中国や北朝鮮と向き合う我が国の現状を考え合わせると、黒田の言葉は、まるで「お花畑ちゃん」の独り言のように聞こえるかもしれない。
しかし私たちは、空気のように平和を享受できる現状を追認するあまり、戦争の記憶が生々しかった頃の憲法解釈を忘れてはいないだろうか。この演説を黒田がしたのは朝鮮戦争前で、我が国には自衛隊どころか警察予備隊さえなかった。当時としては実現可能と思われる未来、つまり“あったかもしれない日本”を、黒田は描いて見せたのである。
黒田は社会主義者である。非武装中立を唱えつつ社会主義国とつながろうとしていたのではないか。そんな疑念も湧いてこよう。しかし、銅像の台座に示された彼の信念を読むがよい。「民族独立」「民主徹底」「平和共存」いずれも時代を超えて今に輝く理念である。対米従属の傾向がある我が国の現右派政権も、少しは「民族独立」の精神に学んだらどうだろうか。
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