今年2月7日に高山右近を「福者」とする列福式が大阪城ホールで行われた。教皇代理として教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿が来日し、右近の列福を宣言する教皇フランシスコの書簡を読み上げた。福者とは聖人に次ぐ崇敬の対象で、これまで日本で聖人は42人、福者は393人認定されており、右近で394人目だという。
高槻市野見町のカトリック高槻教会に「大理石の右近像(高槻城主ユスト高山右近之像)」と「右近の陶板画」がある。
どちらも右近帰天350年に当たる昭和40年(1965)に設置された。大理石の右近像はイタリアの彫刻家ニコラ・アルギィニの作品、右近の陶板画は京焼の陶芸家河合紀(かわいただし)の作品である。
ユスト(Justus)とは右近の洗礼名でジュストとも言い、正義の人を意味している。大河『軍師官兵衛』では生田斗真が、大名でありキリスト者であった右近の誠実な人柄をうまく演じていた。右近の生涯については、近くに建つ「右近の顕彰碑」に詳しく記されている。読んでみよう。
JUSTUS UT PALMA FLOREBIT
ジュスト高山右近大夫長房侯は飛騨守ダリオ高山図書の嫡子なり。幼より公教徒たる父の薫育を受け天正元年高槻城主となり勇略を以て信長秀吉に忠勤し傍ら茶道を極め南坊等伯と号す。常に鋭意治を致し力を文教に注ぎ領民悦服せざるなし。其の福音宣布に当るや挺身我を忘れ救霊惟れ努む。因て授洗せしもの数万に及べり。実に宗門の柱石なり。天正十五年六月秀吉の禁教令を布くや侯は背教と栄達との岐路に立って敢然明石十二万石城主の栄禄を抛ち父子一族と共に欣然其の信仰を奉じ諸国に流浪すること二十五年遂に慶長十九年三月幕府に捕はれ呂宋に追はれ元和元年一月二十八日歿す。享年六十三。実に無血殉教の士と云ふべし。聖書に曰く「人若し全世界を掌にすとも其の魂を亡はば何の益かあらん」と。嗚呼侯は現世の栄誉を棄て永遠の福祉を求め教義に殉じて不滅の生命に活く。今や遺徳四海に普及し列聖を誓願するの声羅馬聖庁に達す。乃ち茲に碑を侯の城趾に建て記を勤して後世に伝ふと云爾。
昭和二十一年十一月列聖請願の日
大阪司教 田口芳五郎 撰
題額の部分に記された「JUSTUS UT PALMA FLOREBIT」はラテン語で、「正義の人はナツメヤシのように栄えるだろう」という意味である。右近が高槻城主であった天正元年(1573)から十三年(1585)にかけては、領内にキリスト教徒が急増したという。
天正十五年(1587)のバテレン追放令により、事態は急変する。大名かキリスト者か、右近は究極の選択を迫られた。しかし、右近は迷わずキリスト者として生きることを決断する。明石の居城を離れた右近は瀬筒から九州にかけて転々とし、最終的に加賀に落ち着く。前田氏の客将として藩政に参画するとともに、静かな信仰生活を送ることができた。
ところが、慶長十八年12月(1614)の禁教令により、宣教師などキリスト教関係者148名は国外追放処分となる。右近もその中の一人であった。七尾市小島町の本行寺に伝わる右近書状「日本訣別の書」には、次のように記されている。
近日出舟仕候 仍此呈一軸致進上候 誠誰ニカト存候 志耳 帰ラシト 思ヘハ兼テ梓弓 ナキ数ニイル 名ヲソ留ル 彼ハ向戦場命堕 名ヲ天下ニ挙 是ハ南海ニ趣命懸天 名ヲ流如何 六十年之苦忽別申候 此中之御礼ハ中々不申上候々々
恐惶敬白 南坊
九月十日 等伯(花押)
近日中に船出するようですので、形見として掛け軸を進上いたします。どなたに差し上げようかと迷いましたが、やはり貴殿がふさわしいように思います。ほんの気持ちでございます。もう生きて帰ることはないだろうから、ここに名を書き留めておく。そう詠った楠木正行は戦場に散り、名声を天下にとどろかせました。私は南方の異国へ行き、身を天命に任せ、名を残すだけにございます。私の60年間の苦行とも、もうすぐお別れです。お世話になった間のお礼は、簡単には申し上げられないほどにございます。
右近の誠実な人柄がしのばれる。右近はマニラ到着後に病を得て、40日ほどで天に召された。今、マニラには高山右近像があり、高槻市とマニラ市は姉妹友好都市となっている。「正義の人」は400年後の未来に、国際親善という素晴らしい贈り物をしてくれた。
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