「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まった箱根関所のせいか、関所には、いい印象がない。政治的な冷徹さを感じる。ところが平安時代の人々は、百人一首で知られるように、関を歌枕として切なさや寂しさを詠んだ。「知るも知らぬも あふ坂の関」文学的感傷がそこにある。
神戸市須磨区関守町一丁目の関守稲荷神社前に「史蹟須磨関屋跡」と刻まれた石碑がある。
須磨関(すまのせき)は、院政期の歌人・源兼昌が詠んだ歌(百人一首78番)で知られ、境内には歌碑がある。
「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守」
この歌は「伊保の湊に千鳥鳴くなり」で書いたように、「関路千鳥」というお題を受けて詠まれたものだ。関といえば須磨関、須磨といえば光源氏の詠んだ「友千鳥」の歌。歌枕に本歌取りという技巧を使った秀歌である。実際に兼昌が須磨に来て千鳥の鳴き声を聞いたかどうかは分からない。
歌枕を詠み込んだ歌の作者が、実際にその場所を訪れていないことはよくある。例えば「来るなかれという幻の関所」で書いたように、勿来関(なこそのせき)は多くの歌に詠まれているが、京の貴族が気軽に訪れる場所ではなく、実在さえも不確かだそうだ。
では須磨関は実在したのか。関について定めた古代の法令「衛禁律(えごんりつ)」私度関条には、次のように定められている。
凡私度関者徒一年。(謂三関者。)摂津。長門。減一等。余関又減二等。
原則として、三関(鈴鹿、不破、愛発)を手形を持たずに通過した者は懲役一年とする。摂津と長門の関では一等減じて、杖でのしばき百回とする。その他の関では二等減じて、杖でのしばき九十回とする。
ここで注目したいのは、3ランクの関のうち2番目の「摂津関」である。この関について、古代の法令「関市令」欲度関条には、次のように記されている。
若船筏経関過者、(謂長門及摂津。其余不請過所者、不在此限。)亦請過所。
関を船で通過しようとするなら、手形を申請せよ。ただし長門や摂津の関に限り、その他の関では手形を申請する必要がない。
このことから「摂津関」が、海の関であったことが分かる。では「摂津関」はどこにあったのか。その手掛かりは、有名な「改新の詔」にある。『日本書紀』大化二年正月朔日条より
凡そ畿内は、東は名墾(なばり)の横河(よこかわ)より以来(このかた)、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、西は赤石(あかし)の櫛淵(くしぶち)より以来、北は近江の狭々波(さざなみ)合坂山(おうさかやま)より以来を畿内の国と為す。
赤石の櫛淵が、畿内と畿外を分ける西の境界であった。櫛のように谷が並んだ地形といえば、一ノ谷、二ノ谷、三ノ谷の地名がある須磨浦が思い出される。目の前は明石海峡で、通行する船のチェックも容易である。関を設けるにふさわしい場所といえよう。これが「摂津関」であり、本日紹介している「須磨関」のことである。
境内に「長田宮」と刻まれた石碑がある。重要なのは側面に刻まれた「川東左右関屋跡」である。須磨観光協会の説明板では、次のように解説されている。
市バス須磨駅前の停留所から東方百メートル暗きょになってしまった千森川と旧西国街道の交叉する地点に明治初年土中から掘り出されたという一メートル余りの石標がある。一面に「長田宮、側面に川東左右関屋跡」と刻まれている。この碑面の出土地点からみれば今の関屋跡といわれている関守稲荷神社の地点とは大分はなれていて少なくとも千森川の東側にかっての関屋跡(櫓台)といわれるところが一時期あったということになる。
その位置は神戸市須磨区須磨寺町一丁目の現光寺の辺りだと言われている。離れているといえば離れているが、大きく見れば同じような場所だ。内乱が相次いだ飛鳥時代から奈良時代にかけては、関は敵の侵入や逃亡を防ぐ重要な役割があった。政権が安定する平安朝では、関は廃止され、人々の記憶にとどまるのみとなった。
過ぎ去った日々が切なさを増すように、関の記憶からリアリティが失われ、心細いような辺境のイメージのみが残された。それを平安貴族は、豊かな想像力と技巧を駆使して歌に詠んだ。人を寄せ付けぬかのように鉄壁だった関は、どんな人の心にも染み入る歌枕となったのだ。
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