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2011/05/14

コメント

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玉山

鴨信明さま
ご教示いただきまして誠にありがとうございます。たいへん勉強になります。

鴨信明

勿来の関は飯坂温泉十綱橋の袂にあった関門です。
放蕩の輩が情に任せ往還する防ぐためと麁蝦夷が伊達郡を越え、信夫郡へ入るのを防ぐ目的で置かれた関門です。
伊達郡と信夫郡の境界にある摺上川は衣川と呼ばれていました。衣川の淵にある関故に衣川の関と呼称されました。舘山ー赤舘ー大門ー東桜瀬ー摺上川にかけて置かれていた関です。衣川近くの高舘で自刃した義経の遺品が近くの医王寺に保存されています。
菊多関、白河の関は元来存在しないと太政官が先例をしらべ断言しています。

玉山

長久保清流さま
ご教示いただきまして誠にありがとうございます。たいへん勉強になります。

長久保清流

「勿来の関」の漢字表記は、赤水先生
の一作です。その後、「蝦夷よ来る勿れ」といわれたようです。
利府町説の依書は、赤水先生の〚東奥紀行』の後に作られています。随所に赤水先生の文を取り入れています。
万葉の歌の多くは、海の近くを彷彿させるものです。西山公から赤水先生まで多くの水戸藩士の方々は、多方面から現在地肯定肯定者
です。しかも詳述しています。
古今類聚常陸国誌、新編常陸の国誌、東奥紀行、又古川古松軒なども詳述しています。平安の歌にも
都から「二十日あまり」とあります。

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