討入り前に大石内蔵助が打ち鳴らしたのは「山鹿流陣太鼓」だが、山鹿素行(やまがそこう)が太鼓の達人というわけではない。素行は儒学者であり兵学者であった。当時主流の朱子学を、「孔子に帰れ」との立場から批判して幕府の怒りを買い、播州赤穂に流されてしまった。
後世に影響を及ぼす多数の書物を著した素行。彼の才能がいかんなく発揮された場所は、配所の赤穂であった。
赤穂市上仮屋の赤穂城跡に「山鹿素行先生銅像」がある。大正十四年の建立である。
思想史や宗教史において、原点回帰を主張する者はたびたび登場する。ルターがそうであったし、本居宣長がそうである。素行先生は、『聖教要録』で孔子の教えに直接学び、日常の実践に生かすよう主張した。
このため、寛文六年(1666)に播州赤穂に流され、9年間をこの地で過ごした。この間、代表的な著書をいくつも残したが、なかでも『中朝事実』はよく知られている。その序文を読んでみよう。
恒に蒼海の無窮を観れば其の大なるを知らず。常に原野の無畦(むけい)に居れば其の広きを識らず。是れ久しうして狃(な)るればなり。豈に唯だ海野のみならむや。愚(ぐ)、中華文明の土に生れ、未だ其の美を知らず。専ら外朝の経典を嗜み、嘐嘐(かうかう)として其の人物を慕ふ。何ぞ其れ放心なるや。何ぞ其れ喪志なるや。抑(そもそ)も奇を好むか。将(は)た異を尚(たっと)ぶか。夫れ中国の水土は万邦に卓爾(たくじ)し、人物は八紘に精秀たり。故に神明の洋洋たる、聖治の緜緜(めんめん)たる、煥(くわん)たる文物、赫(かく)たる武徳、以て天壤に比す可し。今年冬十有一月、皇統の事実を編み、児童をして誦せしめ、其の本を忘れざらしむと云爾(しかいふ)。
いつも大海原を見ている人は、それが大きいことを知らない。いつも大平原で暮らしている人は、それが広いことを知らない。これは長く慣れ親しんできたためである。そのことは海や野に限ったことだろうか。私は「中華文明」の地に生まれたが、いまだその美しさを知らない。もっぱら外国の書物に親しみ、大いにその国の人を慕っていた。なんと思慮が足りなかったことか。なんと本来の志を見失っていたことか。奇異なことを好み、尊んだのだろうか。そもそも「中国」の地は、他国に比べてひときわ優れており、人々は世界のなかでも優秀である。神々の徳が広く大きいこと、皇統は綿々と続いていること、輝かしい文物、名誉ある武徳。これらは天地が果てしないのと同じくらいだ。今年寛文九年(1669)十一月、綿々と続く皇統の歴史を書きあらわし、子どもたちに学習させ、国の根本を忘れることのないようにしたのである。
「中国」が優秀だと述べている。孔子を輩出した中国は確かに優秀だ。自分は「中華文明」の地に生まれたと述べている。素行は中国生まれだというのか。そんな事実はない。会津若松市山鹿町に「山鹿素行誕生地」という石碑がある。
素行の言う「中華文明」とは、実は日本のことであり、優れているという「中国」も我が国を指している。つまり「中華」も「中国」も固有名詞ではなく、世界の中心を意味する一般名詞なのだ。
日本は神や皇室、文物、武威、道徳、いずれも優れている。我が国こそ「中国」だ。素行はそう主張したのである。こうした日本主義的な立場は戦前・戦中にもてはやされ、国体明徴論の先駆者として位置付けられた。
だからと言って素行は、アジアに対する日本の侵略行為を是認することは決してないだろう。国の優劣を論じる際の評価規準は「礼」の有無である。当時の我が国の政策は国際社会の秩序を乱すものであり、「礼」を欠いていたと評価せざるを得ない。
素行は「燈台もと暗し」的な見方・考え方に警鐘を鳴らしたかったのだ。中国の素晴らしさを知る素行が日本の良さを主張するから、説得力があるのである。他国の非をあげつらって、自国の優秀さをアピールすることくらい情けないことはない。
人が生きるうえで、自尊感情の高揚は欠かすことができない。自分の良さに気付くことは自信につながる。国にあってもまた同じだろう。これを愛国心と呼んでもよい。しかし、愛国心が高まることと他国を蔑視することは、決して表裏一体ではないことを心得ておくべきである。
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