私の高校生の頃には、マルクス主義史学がさかんだった。日本史の学参に、明治維新は絶対主義の形成かブルジョア革命か、というコラムが載っていたが、今となってはどうでもいい話だ。マルクスの階級闘争史観を日本に当てはめようとするから無理が生じたのだ。歴史は普遍性よりも個別性が優位なのである。
百姓一揆の評価もそうだ。これを階級闘争に位置付け、搾取された民衆が巨大な官僚的統治機構を暴力的に破壊・解体しようという動きだと見ていた。しかしながら、当時のお百姓はそんなこむつかしいことは考えていない。求めていたのは仁政であり、それに悖ることがあれば訴える。それだけのことである。近世社会は意外にも訴訟社会であった。
津山市二宮に「首なし地蔵」がある。
日本三大百姓一揆の一つと言われる「山中一揆」については、本ブログ「享保の改革に抵抗した一揆」で紹介した。「百姓一揆」という言い方は当時なく、「百姓騒動」「在中騒動」と呼ばれていた。その騒動の首謀者が「首なし地蔵」として祀られているという。二宫歷史文化財顕彰会の設置した説明板から関係部分を読んでみよう。
頭部のない五体の地蔵は、津山城松平二代目城主松平浅五郎侯(幼少六才)時代の事、享保十一年三月(一七二六)山中一揆の首謀者として、滑川口吉井川原で処刑された仲田村池田徳右衛門、見尾の樋口弥治郎と、津山城の獄中にて死刑にされた東茅部村七右衛門とその子喜平治、そして川崎の刑場で処刑された土居村忠左衛門と富東谷村谷村與七郎の六名であるが、一体少ないのは、山中の遺族が持ち帰ったものとおもわれる。
首謀者とされた6人は津山で処刑されたのは享保12年(1727)3月12日のことで、説明板にある「享保十一年」は誤りである。真庭市禾津の山中一揆義民慰霊碑の表記に従えば、東茅部村喜平次と土居村忠右衛門が討首、富東谷村与七郎と東茅部村七左衛門が獄門、見尾村弥治郎と仲間村牧分徳右衛門は磔となったという。
「山中(さんちゅう)」今の真庭市北部と新庄村を舞台としたこの騒動で逮捕された百姓は147人、うち51人が死罪となった。津山以外では新庄村で5人、土居村で25人、湯本村で8人、久世村で7人が処刑された。
お地蔵さまに首がないのは、打首など非業の死を遂げた人々を祀っているからであろうか。『山中一揆と首なし地蔵』(首なし地蔵保存会、S56)には、次のような記述がある。
首なし地蔵は百姓一揆の指導者が、吉井川河原で処刑され晒首にされた付近と思う。これをあわれみて地蔵を建てたが、その後山中の人達の誰かが一つの地蔵の首を取って持って帰ったものではないかと思考する。それからだんだんと減ってゆき、終に五つとも首がなくなってしまった。地蔵の付近の古老によれば幼少の頃には取られた一つの首があって、それを持ち遊んだ様に思うとの事であるがさだかでない。
処刑された6人に対して、お地蔵さまは5体。しかも首がない。地蔵1体と5つの首は山中の人が持ち帰ったのだという。せめてお地蔵さまに死者の身代わりとして帰ってもらい、故郷で供養したいとの思いがあったのだろう。
為政者の非を直接行動で訴えた時代はとうに過ぎ去り、投票行動で意思表示する間接民主制の世の中になって久しい。ただ多数決万能の政治が横行し、仁政が忘れ去られているような気がしてならない。閉塞感の高まっていく我が国の人々は、香港のように逃亡犯条例について直接的に反対の意思表示をするエネルギーを持ち合わせているのだろうか。
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