歴代天皇の皆がみな、幸せな人生をまっとうできたわけではない。四条天皇は不慮の事故、崇峻天皇と淳仁天皇は殺害、弘文天皇は自害、安徳天皇は無理心中である。このうち特に気の毒で同情を誘うのが、八歳で亡くなった安徳帝だろう。満年齢では6歳4か月。「抑も我をば何方へ具して行かんとはするぞ(どこ行くの?)」が最後の言葉だったという。
これでは聞くに忍びないと思った人々は、各地で安徳天皇生存説を語り継いできた。今日はその一つを紹介しよう。
鳥取県八頭郡八頭町姫路に「安徳天皇遷幸記念碑」がある。平成十九年に地元の方によって建てられた。
この地は今でこそ扇ノ山の登山口として知られるようになったが、谷奥の豪雪地帯で落人伝説には適した環境だったようだ。どのように語り伝えられたのか、碑文を読むことにしよう。
文治元年(1185)三月二十四日下関の壇ノ浦で最後の源平合戦に敗れた平家一門は第八十一代安徳天皇武将官女等相次いで入海滅亡したと伝えられるが、幼い天皇(八才)は祖母の二位の尼(清盛の妻時子)等に守られ密かに脱出し賀露港に上陸後、岡益を経て姫路に御潜幸され、この地私都(きさいち)を仮の皇居として営まれていたという。
天皇十才の夏八月十三日村西方の下山で山遊のおり俄かに御発病、侍臣達の必死の看護も空しく崩御ヵ平で崩御され、嘆き悲しんだ。二位の尼は御遺体を村に移し後山に葬られたといわれる。以来村人はこの地を安徳天皇御陵の聖地として厚く崇め祀っている。
また安徳天皇・大山祇命を祭神とする上岡田神社でその御霊をお慰めし、お慕い奉り現在に至っている。
「姫路」や「私都」の地名が貴種流離譚にふさわしい。この記念碑からさらに奥に進むと、「安徳天皇御陵の聖地」がある。
同じく八頭町姫路に「上岡田五輪群(安徳天皇御陵地)」がある。
ここまで五輪塔が集まっていると、むしろ壮観である。ここが安徳帝と従者の墓である、と説明されたら納得するだろう。古い説明板があるので読んでみよう。
伝承
安徳天皇御陵について
寿永四年(一一八五)-文治元年-三月二十四日、長門国(下関市)壇の浦の最後の源平合戦に敗れた平家は、第八十一代の安徳幼帝(御年八才)以下入水とみせかけて、実は、天皇以下主だった部将らはひそかに戦場を離脱し各地に亡命した。天皇を奉じた二位の尼(平清盛の妻・時子)、女官、武将らは海路因州鳥取の賀露の浦に上陸、折よく通りかかった岡益の光良院住職の宗源和尚の御案内により、この姫路の地に遷幸されたという。
この地を私(ひそか)な都として仮の皇居を営まれていた天皇は、文治三年(一一八七)-文治二年説もある-八月十三日、村の西方、国府町境の山野(下(し)モ山)で山遊び中、俄かに御発病、侍臣たちの必死の御看護も空しく、遂に峯のやゝ下方で崩御された。
今、その地を「崩御ヵ平(ほうぎょがなる)」と呼んでいる。歎き悲しんだ二位の尼以下の侍臣たちは、泣く泣く御遺骸を村に移し、この「平地(ひらち)」の地に葬り天皇の御墓としたといわれる。
以来八百年間、邑人(むらびと)たちはこの地を安徳天皇御陵の聖地として厚く崇め祀っている。
平成四年十月 郡家町観光協会
安徳帝が葬られたのは「後山」なのか「平地」なのか。それとも後山のふもとの平地なのか。楢柴竹造『八頭郡史考』(横山書店、大正12)に「姫路村安徳帝御潜幸事蹟」という項目がある。関係部分を抜粋してみよう。
…遂に此の姫路村に潜匿し、假殿を建て帝を奉安す。時に四月十四日なり。然るに寂莫たる山里なれば、他に快楽の事なきを以て、八月十三日、(彼岸の中日)二位尼及び侍臣官女等、帝を奉じ隣接地たる法美郡荒舟村の山巓(後に崩御ヶ平と称す)に登り、近国の山海を御叡覧に供し、各々詩歌を献じ御清興を資けつゝありしが、帝俄に御不予にならせられたるを以て、侍臣等大に驚愕し、直に用薬を献じ、或は山麓の医師に馳せ百方治療せしも、其効験なく、ついにご崩御あらせらる。侍臣等慟哭すと雖も及ばず。相議して字平田へ陵を築き、御遺骸を葬むり、宗源和尚を請い御菩提を吊ふ。
安徳天皇が姫路に潜幸され、8月13日に崩御ヶ平で亡くなったことは共通しているが、ご遺体を葬った場所は「平田」だという。少々混乱してきたので話題を変え、幼い安徳天皇が遊ぶようすが語り伝えられているので紹介しよう。
上岡田神社のそばを流れる小川には、「片目の魚」の伝説がある。どのような伝承なのか、説明板を読むことにしよう。
伝承
宮川の「片目雑魚(じゃこ)」(現在は棲息せず)
上岡田神社裏山の麓を流れる谷川に、昭和三十年頃迄は、片目の「雑魚」がたくさんすんでいた。
幼帝をおなぐさめのため、村人が持参した「雑魚」をたらいに入れて楽しまれていた天皇が、いたずらに針で片目をつき、川に放された。
それ以来、宮川の「雑魚」は皆片目になったと云う。
〈郡家町観光協会〉
「これ!なりませぬ。雑魚の身になってごらんなさいまし。どれほどつらい思いをしていることでしょう。」お付きの者はそう言って、安徳帝を叱らなかったのだろうか。養育係たる者、善悪の判断力を育てる義務があるだろう。子どものすることは時に残酷である。しかし人生の経験を重ねるうちに、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」という箴言を理解するのだ。
ただ、宮川の魚にとって運が悪かったのは、いたずらっ子が安徳天皇だったことだ。近所の悪ガキなら被害の魚は少数で済んだはずだが、神通力のある天皇だけに因縁は八百年近く続くこととなったのである。それだけ天皇の地位は重いのであるが、それが理解できるほど成長せずに死を迎えたことを思えば、よけいに憐憫の情を禁じ得ないのであった。
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