先日、インフルエンザの予防接種を受けた。ずいぶん前に罹患して何日も寝込んだことがあり、頼むから罹らないでくれと祈るような思いで接種した。ここで注目したいのは「接種」である。弱毒化しているとはいえ、わざわざ病原菌を体の中へ入れるとは、なんと勇気あることか。ここでは、人間は病魔に侵される受動的な客体ではなく、闘いに挑む能動的な主体である。
「種」には「うえる」、「接」には「うける」という意味がある。天然痘を予防するために、かつて牛や人から受けた痘苗を皮膚を裂いて植えていた。あたかも稲の苗を土に植え込む田植えのように。予防接種という画期的な医術は、天然痘との闘いによって生まれたのである。
三原市本町三丁目の宗光寺墓地に「吉田石痴翁墓」がある。
小さいながらも風流で、どこかモダンな印象のあるお墓だ。どのような人物か知りたいのだが、説明板は宗光寺の門前に掲げられていた。引き返して読むことにしよう。
吉田石痴 墓(本町)
高田郡八千代村の医家の琴崎家に生まれる。姻戚であり代々三原浅野家に仕える同業の吉田家を嗣ぐ。
長崎に遊学。種痘術を福岡藩武谷塾に学ぶ。一八四九年、わが国に初めて牛痘菌が輸入されたことを知り、ひそかに手を尽くしてこれを求め、多くの反対を排して主君浅野忠英の許しを得て三原地方の人々に種痘を施し、遂にその数五万人に達した。これが山陽路に於ける最初の種痘である。
明治維新には人々に先んじて家禄を奉還す。豊田郡高坂村(現久井町坂井原土取)に隠棲し、医業の傍ら農業を営む。水車を経営し、囲碁、盆石、木彫、発句をたしなみ、下草井の茶を愛す。
明治十三年没。六十六才。初め同村三級の滝(仏通寺昇雲の滝か)の上に葬り、後に現地本堂向側の七層石塔(市重要文化財)の西上に移す。
宇都宮龍山 詩。襟度如君有幾人、撫瓢摩石養天真、老来特愛山中好、不受官覇不受塵
石痴翁も天然痘に戦いを挑んだ一人であった。このブログで紹介した足守の緒方洪庵、福山の寺地強平も同様に地域医療に貢献した。川尻浦の久蔵はもっと昔に、痘苗を漂流先のロシアから持ち帰っていたが、日の目を見ることはなかった。
石痴翁が教えを請うた武谷祐之(たけやゆうし)は、広瀬淡窓の咸宜園や緒方洪庵の適塾に学んだ英才で、筑前福岡で種痘の普及に努めた医者である。石痴翁の種痘に理解を示した12代城主浅野忠英は、明治初年に「三原洋学所」を創設し英語教育を推進した開明派だった。
種痘のパイオニアが各地にいる。天然痘の恐怖から人々を解放し、安心して暮らすことのできる社会の実現を目指した人々だ。佐賀藩では藩主鍋島直正が世子淳一郎(後の直大)に種痘したが、種痘の普及はこのような理解ある領主あってこその偉業であった。
私も種痘を受けたので腕に傷痕がある。おかげで天然痘に罹患しなかったというのは言い過ぎだが、人類の叡智である痘苗が私の体に植えられたのだと思うと、少々誇らしい気分になる。もう天然痘は怖くないが、インフルエンザだけは勘弁してほしい。
ありがとうございます。ご子孫の方の貴重な情報をいただき、大変心強く思います。人を救おうとする思いが受け継がれていることに感銘を受けます。これからも語り継いていきたいものですね。
投稿情報: 玉山 | 2023/11/11 08:30
たまたま家にある曽祖父の伝記を読んでいたら、曽祖父の生母は吉田石痴翁の二女との記載がありました。石痴翁は福岡黒田藩医武谷祐之翁に師事されたようですが、武谷祐之翁は緒方洪庵翁の弟子で、賛生館(今の九州大学医学部の源)の設立に力を尽くしたとあります。私は医師ではありませんが、私の叔父も従兄弟も、その子供も医師になっており、時代を超えて子孫に医療への思いが引き継がれているように感じます。
投稿情報: 孫の孫はなんていうのだろう? | 2023/08/14 19:52