『JIN-仁-』という秀逸な漫画とドラマがあった。幕末にタイムスリップした脳外科医が、乏しい医療器具にもかかわらず、懸命に人々の命を救うヒューマンストーリーである。仁は主人公の名前だが「医は仁術」という格言を含意している。
「一視同仁」という語もまた医学倫理の根本である。怪我や病気で苦しむ人を救うのに、貴賤の区別などあろうはずがない。「同仁」を冠する病院は今も各地にある。
福山市伏見町に「福山医学黎明の地」と刻まれた石碑がある。
福山の医学はここから始まったというが、具体的には何があったのだろう。碑文を読んでみよう。
明治福山医学校同仁館病院跡
明治二年福山藩は、誠之館教授寺地強平を院長とし、 西洋医学による大規模な病院、並びに医学校をこの地に開設、 広く住民に開放し、大きな足跡を残した。 福山地方近代医療の原点となる旧跡である。
平成元年十月一日 福山市医師会
福山には、陸軍病院を起源とする福山医療センターや民間企業が設置した日本鋼管福山病院など、高度な医療を地域に提供する優れた病院がある。その原点がこの同仁館であり、その院長が寺地強平であった。
福山市丸之内1丁目の小丸山「先人の森」に「舟里寺地先生之碑」がある。
寺地舟里先生とはどのような人なのか。そばの石碑には次のように記されている。
名 強平 文化六年(一八〇九)福山に生る
京 長崎 江戸に洋学を学ぶ 福山初の種痘を実施 藩校誠之館で洋学教授 廃藩後城下西町に医学校兼病院を設立
明治八年(一八七五)没
本碑は昭和五十五年三月本丸より移す
ここで注目したいのは、福山で初めて種痘を実施したことだ。今でこそ過去の病となった天然痘だが、予防接種のない時代には恐怖以外の何ものでもなかった。江戸後期に種痘が始まっても「牛になる」と噂され、理解が深まるには大変な苦労があった。
「舟里寺地先生之碑」には、その苦労が刻まれている。撰文は阪谷朗廬である。関係部分を抜粋しよう。『朗廬文鈔』より
種痘術之新伝也、先生奔走、得其種播之。群疑沸騰、至斥為妖妄。先生説諭尽力。応機取験、其術日行。所済実多。数州嬰孩、至今蒙其沢云。
新たに種痘術が伝わると、先生はあちこち駆けまわって、痘苗を入手し人々に接種した。すると疑義が噴出し、アヤしげなものとして排斥された。先生は人々への説得に力を入れた。接種のたびに効果を確かめ、種痘を普及させた。これに救われた者は実に多く、近国の子どもたちは今に至るまで、その恩恵を被っている。
福山市木之庄町四丁目に「寺地強平之墓」がある。
「明治八年乙亥十二月七日没」とある。幕末から明治にかけて人々の命を救うために奔走した寺地先生。もしかすると南方仁のように、現代の名医がタイムスリップして150年前に現れていたのかもしれない。
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