戦後70年を経て数年、元号が改まろうとしている。「もはや戦後ではない」とは1956年度の『経済白書』の言葉だが、その当時はじゅうぶん戦後であった。戦争の記憶が薄らいでいく現在、ついに「戦後は遠くなりにけり」の感慨を覚える。
福山市東町二丁目の光善寺に「焼夷弾で焼けた光善寺『英霊堂』の軒」がある。
被害が最近だったかのように焼け跡が生々しい。火災が一部でとどまったことで、私たちは空襲の痕跡を見ることができる。福山市の中心部であれば全焼は免れなかっただろう。説明板には次のように記されている。
福山空襲遺跡案内板
焼夷弾で焼けた光善寺「英霊堂」の軒
ここ光善寺は, 1945年(昭和20年)8月8日の夜,福山空襲により山門と英霊堂を残し全て焼失した。英霊堂の軒は,焼夷弾により発生した火災の痕と焼夷弾が貫通した痕のふたつの傷痕を残す貴重な空襲遺跡として保されている。
なお、戦前にあった場所から,現在の位置(寺境内)に移設されている。
また,英霊堂は福山空襲遺跡として現存するものの中で,唯一の木造建築物である。
2016年(平成28年)3月 福山市
8月8日といえば、広島と長崎の原爆の間である。我が国はもはや踏んだり蹴ったりの状況であった。国宝に指定されていた福山城天守閣もこの時焼失した。空襲の犠牲者は354人に上ったという。
だから戦争はいけない、戦争指導部の責任は大きい、というのが一般的な見解である。確かに悲惨な結果を招いた首脳陣の責任は厳しく問われるべきだろうが、もう一歩踏み込んで、アメリカが市民に対して無差別に攻撃した責任も追及すべきではないか。
アメリカ側は戦争の早期終結に向けて日本人の戦意を喪失させるためと正当化し、実際そうなったのだが、国際法の観点からは違法である。振り返って我が国だが、隣の小国には「断交」などと好き勝手言えるのに、海の向こうの大国には沈黙してしまうのは情けなかろう。独立国家の気概を持つべきではないだろうか。
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