子どものころ『岸壁の母』という歌がヒットしていたが、母が何をしに岸壁に来たのかよく分かっていなかった。外地から引き揚げてきた人が身近にいなかったこともあり、「舞鶴」という地名に特別な思い入れを抱くこともなかった。
舞鶴に初めて行ったのは数年前で、引揚記念館はリニューアル工事のため赤レンガパーク内で仮展示を行っていた。仮とはいえしっかりした展示で『岸壁の母』が丁寧に解説されていたので、遅まきながらようやく理解した次第だ。「興安丸」という船の名もそこで知ったと思う。
三原市城町三丁目に「興安丸の錨」がある。このブログでは以前に「鎮遠の錨」を紹介したことがある。
最近、錨マークはPC上でよく見かける。Wordで画像の位置を示す記号のようだ。ソースでも見たと思ったら、イカリソースだった。ポールヒューイットという碇がモチーフのおしゃれなブランドもある。
しかし、迫力は本物にはかなわない。この重厚で美しい錨の向こう側には、興安丸の歴史が年表にまとめられている。
昭和十二年一月三十一日
関釜連絡船として就航
下関―釜山間百二十二海里を七時間三十分で運行する
昭和二十八年三月
外地から舞鶴へ引き揚げ輸送にあたる
初めは華北の秦皇島から同年十一月にはソ連ナホトカから同三十二年八月一日にはカラフトからこの日をもって戦後の引き揚げは完全に終止符がうたれる
昭和四十五年十月
横須賀から三原まで曳航され昭和史のもっとも激動の時期を生き抜いた「興安丸」は三原市木原町沖において解体され波乱の生涯を終える
興安丸は関釜連絡船から引揚船へと転身し、多くの命を帰還させた船であった。岸壁の母、端野いせさんもこの船から息子が降りてくるのを待っていた。息子の新二さんは公的には戦死したとされたが、母は帰還を信じてやまなかった。いせさんが亡くなってからずいぶん経った平成12年、京都新聞が新二さんの生存をスクープしたが、真相は定かではないという。
解体された興安丸を偲ぶものが三つあり、一つは本日紹介の錨だが、もう一つの錨が下関市岬之町でも保存されている。そして三つめが舞鶴引揚記念館に保存されている時鐘(じしょう)である。今年も8月15日、来館者が時鐘が鳴らし、世界平和の実現と人類の幸福への祈りを捧げたそうだ。
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