家族の安定は心の安らぎである。とはいえ不幸は、自らの努力とは関係なく訪れる。初代津山藩主で津山城を築いた森忠政ほど家族に恵まれなかった大名はいない。
忠政は森可成の六男で元亀元年(1570)生まれ。同じ年に父が討死し、長兄可隆もすでに討死していた。三兄蘭丸、四兄坊丸、五兄力丸の三兄弟は天正十年(1582)の本能寺で討死した。次兄長可は天正十二年(1584)に長久手で討死した。
こうして森家を相続することとなった忠政は、3人の男児に恵まれた。ところが、次男虎松が慶長十七年(1612)に11歳で亡くなり、庶子で長男の重政も元和四年(1618)に26歳で亡くなる。嫡子で三男の忠広はいろいろやらかして父を悩ませたのち、寛永十年(1633)に30歳で亡くなる。
本日は、あまり知られていない森重政の墓所を訪ねたのでレポートする。
岡山県苫田郡鏡野町真経(さねつね)に町指定史跡の「森大膳亮重政の墓」がある。
道沿いにあるのが上の供養塔で、南側の小高い丘にあるのが下の石碑である。
津山城主森忠政公嫡男
瑞応院殿桂林俊芳居士
森大膳重政終焉之地
元和四年六月五日寂享年二十六歳
津山城主の嫡男の墓が、なぜ遠く離れた山中にあるのだろうか。説明板を読んでみよう。
春谷口といわれる、当地の東の山腹を三〇メートル程登ると、「お墓畝」と呼ばれる所があります。そこは、津山藩主森忠政の第二子、重政の墓所跡と伝えられています。また、一説には火葬に付した所ともいわれています。
「森家先代実録」によると、重政は、一五九三年濃州金山(岐阜県兼山町)に生まれ、一六一八年に真経村で、二五年の短い生涯を終えています。
重政の母は、香々美といい、現在の大谷橋から二〇〇メートル程奥に入った、溝の尾という所に住み、病身の重政を視護していました。
重政には、一六一一年真経村で生まれた、於捨(オステ)という娘があり、於捨は後に現在の津山市戸川町にある妙願寺二代目浄公室になっています。
重政は、いったんお墓畝に埋葬されましたが、無苦往生の寺として知られる誕生寺に改葬され、誕生寺御影堂南奥に墓石があります。
「嫡男」と「第二子」、重政の位置付けが異なっている。重政の母である香々美は側室で、虎松と忠広の母である於岩は豊臣秀長の養女として正室であった。重政は実際には嫡男であったが、正室の第一子として虎松が生まれたことで「第二子」とされたのだろう。
説明板に「病身の重政」とあるから、静かなこの地で療養生活を送っていたのかもしれない。ところが、岡山県鏡野町学校教育研修書編『鏡野風土記』には気になる記述がある。読んでみよう。
大膳の少年期から青年期にかけては、関ヶ原の戦、大阪の陣と続く、興亡あわただしい戦乱の時代を経て、やがて徳川の威の下に諸大名がしゆう伏せられていく時代の大きな転換に、若い重政にとって心中の抵抗に怏々(おうおう)とした日々であったようだ。時に狩に出かけたおり、百姓が無礼を働いたというかどで、鉄砲で撃ち殺すという事件がおきた。狼狽したお城の重役達は、幕府を恐れ、お家の安泰のため、乱心者ということにしてこの山奥に押し込めたのだそうだ。
不祥事を隠蔽するため、乱心あるいは病気の療養という名目で山奥に押し込めたのかもしれない。どこまでが本当なのか分からないが、森家の嫡男が表舞台に出ることなく、この地で生涯を終えたのは確かだ。
岡山県久米郡久米南町里方の誕生寺境内に「森大膳亮重政殿御墓」がある。
法然上人ゆかりの地で今、森大膳は安らかに眠っている。説明板を読んでみよう。
津山城主森忠政の長男、元和四年戊午年六月五日苫田真経村で逝去、年二十六才。
重政の遺子於捨は津山妙願寺二代浄公室となる。
妙願寺については「信長公に認められず命拾い」で紹介している。森忠政公の御母堂、妙向尼ゆかりの寺である。忠政公にはもう一人の母があった。重政の墓に並んで「津山城主森忠政公御養母大野木殿御墓」がある。養母である大木野殿はどのような女性なのか、説明板を読んでみよう。
大野木殿は柴田勝家の娘で、夫は山城国宇治槇島城主塙九郎左右ヱ門尉であった。
忠政七才にして養子の約束ができたが、塙は信長に従い大坂の一向一揆を攻めて戦死、御養母は勝家の家臣原元次と再婚したが夫は賤ケ嶽で戦死し尾張の田舎にわび住いしていた。忠政は養母を津山に迎え老後を安楽に送らせた。
寛永四年四月十四日逝去。遺言によって誕生寺に葬った。
大木野殿は、なんと柴田勝家の遺児で、忠政を養子にするという約束をしたことがあった。忠政公は数少ない縁者である大木野殿を津山に迎え、かつての恩に報いたという。大木野殿は寛永四年(1627)に亡くなり、同十年(1633)には嫡子忠弘を失う。後継者に困った忠政公は、関氏に嫁いだ娘の子である長継を養子とした。これで安心したのか、同じ年に忠政公は亡くなってしまう。寛永十一年(1634)のことであった。
調べてみれば、妻の於岩も慶長十二年(1607)に亡くなっている。どこまでも気の毒な忠政公だが、藩祖として今も津山市民から敬愛され、森家の系譜も播州赤穂藩、播州三日月藩で連綿と続き、明治となってから子爵を授けられている。森家の礎を築いた忠政公の波瀾万丈は、大河ドラマで描いてもよいくらいだろう。
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