長いあいだ山城の魅力が分からなかった。天守閣がない、石垣がない、何があるのか分からない、理由はこれだけではない。山にしか見えない、登るのがめんどう。しかもアクセスが容易でない。
それでも、と思い登って初めて分かった山城の魅力と存在意義についてレポートする。
紅葉が美しいのは山城探索の魅力の一つだが、軍事的な機能とは関係がない。重要なのは眺望である。馬場跡から西方面を写したこの写真で、奥のほうに見えるのは津山市街である。谷に沿って出雲街道がこちらにのびている。
城は街道から離れた山中に位置し、そんな不便な場所になぜ築城したのかと思っていたが、この眺めを見て意味が分かった。本丸跡から東方面を見れば、久世の市街地まで見通すことができる。敵を探知することは防衛のイロハのイである。
この城跡は、津山市中北上にある県指定史跡「岩屋城跡」である。標高482mだが、息を切らせても登城する価値がじゅうぶんある。
大規模な曲輪に、めまぐるしく交代した城主。山城を楽しむ要素が揃っているのだ。詳細な説明板が登城口にあるので読んでみよう。
岩屋城は、嘉吉元年(一四四一)、山名教清が赤松満祐討伐(嘉吉の変)の論功行賞により、美作国の守護に任ぜられた際に築城されたという。
その後、応仁の乱の勃発(応仁元年-一四六七)に伴い、山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、さらに文明五年(一四七三)政則が美作国の守護となったことから、岩屋城には部将の大河原治久が在城した。
永正十七年(一五二〇)春、赤松氏の部将であった備前の浦上村宗が謀反し岩屋城を奪取、部将の中村則久を岩屋城においた。これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年四月部将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなった。
このことから二十四年後の天文十三年(一五四四)、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行なわれ、城主中村則治(則久の子)は尼子氏に従属した。しかしながら、永禄十一年(一五六八)頃、中村則治は芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力を伸ばしていた宇喜多氏の傘下に投じたが、五年後の天正元年(一五七三)には宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至った。
その後しばらくは比較的平穏であったが、天正七年(一五七九)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから再び美作の諸城は風雲急を告げるところとなり、天正九年(一五八一)毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり再び毛利氏の勢力下となった。
織田氏と毛利氏の攻防は、天正十年(一五八二)備中高松城の開城により終了したが、領土境を備中の高梁川とすることについて美作の毛利方の諸勢カはこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が部将花房職秀を将として行なわれた。この接収戦は長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備後の納にいた足利義昭の調停により戦闘は収束した。
これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守が入城した。しかしながら、六年後の天正十八年(一五九〇)八月野火により消失し廃城となったと伝えられている。
久米町教育委員会
中国地方西部の戦国史をそのまま描くかのような勢力図の変遷である。美作は中小の国人領主が多く、戦国大名が育たなかった。ゆえに周辺勢力の草刈場となって、激しい争奪戦が展開された。この地方に大規模な山城が多いのも、そういう事情からだろう。
16世紀の半ば、このあたりは尼子氏の勢力下にあった。当時の城主は中村則治、副将格は尼子氏の目付役である芦田正家、そして中村を支える忠臣に加藤伊予守がいた。南からは宇喜多氏が勢力を急速に勢力を拡大していた。
登城口に近い場所に「史跡 自害谷」の標柱が倒れていた。側面には「忠臣 加藤伊豫守」「永禄十一年(一五六八)」と記されている。道沿いに説明板があるので読んでみよう。
忠臣 加藤伊豫守と自害谷
岩屋城はまさに戦国の時代、山名・赤松・浦上・尼子とめまぐるしく支配する武将は変りゆく、天文十三年(一五四四)尼子の支配下にあった時、城主は中村大和守則治であった。
又、尼子は副将格として芦田備後守正家をおく。兼ねてより宇喜多直家は、戦略上作州進出を望み特に岩屋城に注目していた。
このことを知った正家は尼子の将でありながら策をねり、日頃から宇喜多になびかせようと謀っていた。しかし、城主中村則治(尼子方)は、その策には耳をかたむけず城主として固い意志で守りとおしていた。
難攻不落の岩屋城は正面からではとても難しいと考え、宇喜多本陣ではひそかに備後守正家に通じ奪うことを進めていた。
時たま狩猟より還って来た城主則治を疲れていることを知りながら、一夜宴会を計画、酒宴の席で殺害し、城を奪い宇喜多にその身を投じた。
一方家臣加藤伊豫守はこのことを知り嘆き哀しみ、自分は病身であることから、仇をも討つことができず甚だ無念に思い、山の三合目あたりの谷間で腹を一文字に割き切って自害し果てた。
時に永禄十一年(一五六八)。今日岩屋城の南東に位置する麓に「自害谷」と呼ばれている地名が現存している。その箇所に数基の墓があり割腹した加藤伊豫守と他数人の忠臣のものと云われている。
最後まで任を守りとおした城主中村大和守則治の忠義に対し、死をえらんだ忠臣加藤伊豫守を忘れることなく伝承したいものと思っています。
岩屋城を守る会
岩屋城をめぐる攻防第三幕「尼子から宇喜多へ」の場面である。忠義は美しいが、生き残るために強い方へ付くのは当然だから、芦田正家を裏切り者と非難するわけにもいくまい。ただし正家は、新たに仕えることとなった宇喜多直家の信頼が得られず、5年後に殺害されている。
第四幕「宇喜多から毛利へ」の名場面は、「落とし雪隠」の戦いである。本丸跡に戻って奥へと進むと「落とし雪隠」の立て札があり、「危険です、前へ出ないで下さい」と警告まである。どうやら急崖らしい。本丸跡の説明板には、次のように記されている。
本丸北側の垂直に近い断崖は、 昔から「落し雪隠(おとしせっちん)」と云われ、天正九年(一五八一)の毛利氏による岩屋城攻略戦の時、毛利方の将中村大炊介頼宗は、決死の士三二人を選び、風雨の夜この「落し雪隠」をよじ登らせて城内に突入し火を放ち、大手口方面の攻略軍と呼応して攻めたので、堅固なこの城も遂に落城したと伝えられている。
毛利方が東へと勢力を広げている間に、中央では織田方が揺るぎない権力を確立し、西へと進出しようとしていた。天正十年(1582)ついに、両者は備中高松城で決戦を行う。その結末は日本史上最大の名場面であり、本年の大河「麒麟がくる」でもクライマックスとして描かれるだろう。
このとき勢力圏は高梁川を境として分けられることが決まり、中国地方の戦いは終結するはずだった。しかし、織田方の範囲に位置する岩屋城主中村頼宗は和議に復さず、城の明け渡しに応じようとしなかった。
そこで宇喜多氏が力づくで接収しようとしたが決着がつかず、最後は足利義昭が調停に乗り出して事態は収束したという。天正十二年(1584)のことである。信長に追放されて以降は影が薄くなっていた義昭だが、さすが腐っても鯛だけあって力量を発揮している。
先般の衆議院予算委員会で立憲民主党議員が、「鯛は頭から腐る」という言葉を出して首相の政治姿勢を質した。すると、こともあろうかアベ首相自身が「意味のない質問だよ」と野次り飛ばしたのである。これで結局、首相は謝罪に追い込まれたのだが、「腐っても鯛でございます」と度量ある答弁が欲しかったとの声が出ている。
モリカケサクラだとか新型コロナだとか、沈鬱になるようなことが蔓延している。人混みに出るのは控えたほうがよさそうだから、ウィルスのいない山城に登ってはいかがだろうか。急峻な坂道と開けた眺望が身体と心に、そして重厚な歴史が少しばかり頭にも効くことだろう。
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