弥生時代研究史の金字塔である登呂遺跡。歴史の真実を知るために多くの学生や市民が参加して、歴史の民主化ともいえる発掘調査が行われた。遺跡のシンボルとなるあの復元住居が作られたのが昭和26年のことである。竪穴式住居に水田耕作という弥生時代の教科書イメージは、すべてここから生まれたのである。
同じ年、岡山県北でも若き研究者が弥生の住居跡を発掘していた。
岡山県勝田郡奈義町中島東に「野田遺跡」がある。復元住居があるわけでなく、遺跡の存在は石碑が示すのみである。
古い扇状地の広々とした高原で、洪水で流される危険性もなさそうだ。ここで発掘調査を行ったのが岡山考古学の泰斗、近藤義郎先生である。登呂遺跡で言えば杉原荘介先生のような方だ。近藤先生の記す碑文を読んでみよう。
本遺跡はここを中心とし約一粁平方に及ぶ一九五一年八月炎天下約一か月にわたり旧北吉野村地元中島東や多数有志の協力を得て岡山大学人類学考古学研究室現岡山大学文学部考古学教室により中国地方最初の学術的発掘調査が行われた。
円形と隅丸方形内部に火を焚いた跡と貯蔵用と推定される穴を有する七棟の竪穴住居一棟の高床式倉庫と二個の袋穴から成り種々の形の土器が発見され集落の単位住居群と認められ弥生時代中期中葉約二千年前遺跡と判明特に住居址の一つには石鏃製作によると認められる多量のサヌカイト石材小片発見既に集団中に作業分担があったことを示唆していた。
本遺跡はこの地の人の努力により保全されていて日本古代史解明の貴重な貴重な端緒となったなお早くから那岐山麓には高村継夫氏ら多くの篤志家により多数の遺跡が発見されていた。
現時点では那岐山麓では本遺跡より古いものは確認されず従って二千年前この地を開拓し稲作りにより集落を形成した祖先の努力をしのばせ奈義町始原の地とも考えられる。
一九八二年三月 岡山大学文学部考古学教授 近藤義郎誌
重要なポイントがいくつかある。まず「中国地方最初の学術的発掘調査」であったこと。「東の登呂、西の野田」は言い過ぎだろうか。そして「集団中に作業分担があった」こと。「弥生のマニュファクチュア」は言い過ぎだろうか。また「奈義町始原の地」であること。当時の弥生人に奈義町民という意識はなかったが、背後の雄大な山をNagiと呼んだのは野田遺跡の人々だった。これは言い過ぎだろう。
さらに調べると、この遺跡からは石包丁と紡錘車が多数出土していることが分かった。稲を刈ることと糸を紡ぐこと。弥生の生産の在り方の典型と言えよう。登呂遺跡に学ぶことが多くあるならば、野田遺跡もまた然り。復元住居など当時を偲ばせるものは何一つないが、近藤義郎先生が記した説明が遺跡の意義を余すことなく伝えている。
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