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山容と山名は密接な関係にある。槍ヶ岳は尖っているし鋸岳はギザギザしている。ご当地富士は富士山にどこか似ている。このブログでも讃岐富士を紹介したことがある。本日登るのは、三角形の三角山である。旧用瀬町役場から出発だ。
鳥取市用瀬町用瀬(もちがせ)に「三角山(みすみやま)女人堂(にょにんどう)」がある。女人堂といえば、女人禁制の地において、結界の外に設けられたお堂である。山岳信仰の霊場ではしばしば見かける。
三角山が信仰の対象となるのは分かる気がする。用瀬アルプスの中でも山容が際立ち、修行の場に相応しいように感じる。山頂には神社があるという。説明板には、次のように記されている。
三角山神社本殿(町指定文化財 昭和50年10月1日)と三角山
本殿は三角山(516m)通称頭巾山(とっきんざん)の山頂にあり祭神は猿田彦大神(峰錫大権現)で俗に峰錫さん、権現さんと尊称されている。
山頂は周囲四十間(約72m)ばかりの平坦地に、影石・重石・富士石・天狗石・万灯石と名づけられた巨巌がある。
現在の本殿は弘化二年(1845)四月再建のもので、東向であったものを西向にかえて建て、更に明治四十年(1908)に修理したものである。
麓から山頂までは十八丁(約1960m)の険しい山路で、途中に垢離場・女人堂(現在地)があり、戦前まで女性はここより登ることが出来なかった。
祭日は旧暦6月24日(現在7月23日)に行われ、享保(1716年~)の頃から山頂の籠堂でご来光を迎える人が多数あった。また、祈願成就の印として石をたむける風習が現在も伝わっている。
平成九年五月
用瀬町教育委員会
かつては実際に女人禁制だったという。さっそく足を踏み入れて、文化財指定されている三角山神社本殿を目指すこととしよう。
遠くから見ても近付いて見ても三角の山である。南側のこの絶壁にどうやって挑むのか心配したが、右手に下り裏側に回り込むルートがあった。
三角山の頂上は用瀬町用瀬と用瀬町古用瀬(ふるもちがせ)と用瀬町赤波(あがなみ)の境である。ここに市指定文化財の「三角山神社本殿」があった。というのも、昨年の一月九日から二月十一日の間に焼失したのだという。
私が参拝したのは一昨年、間もなく四月になろうかという時期だった。石垣に取り付けられた説明板には、こう書いてあった。
三角山神社山頂(奥宮)本殿
(海抜508m)
この社の創建は不明なれども、口伝では因幡の国司「在原行平」この社に参拝し「ゆくさきをみすみのやまを…」と詠んだと云われていることから、西暦800年以前とも考えられる。幾多の災害により消失するも寛永3年(1626)に再建され、宝永3年(1706)の棟礼が確認されている。
祭神は「猿田彦(さるだひこ)大神」で峯錫大権現(ほうしゃくだいごんげん)と言われ、 藩政時代から「峯錫さん」「権現さん」「お山さん」と親しまれ、近郷の人々に厚く信仰されてきた。出征時には「武運長久」を祈り、多くは「病気治癒」を祈願し、祈願成就の証しとして山頂へ石を手向けた。これを「力石」と呼び、その風習は今も引継がれている。山頂社殿の周りには、その昔より、影石、重石(おもいし)、富士石、天狗石、万灯石と名付けられた5個の巨石があり、今に伝わる民話「用瀬の峯錫坊」「山守の蝶の群れ」「鼻たけの話」など、その昔、霊山、霊場であり、修験者達の修行の場でもあったことが伺われる。
「三角山」別名「頭巾山(とっきんざん)」とも呼ばれている。
説明板には意匠について記されていないが、細やかな彫刻が施され、とりわけ鳥取藩主池田家の家紋「揚羽蝶」が美しかったという。ご祭神はサルタヒコで、天狗と同一視されることが多く、この山にも天狗話が伝わっている。その内容については女人堂にある説明板で紹介されている。
三角山にまつわる伝説
(別名 頭巾山・宝積坊権現(ほうしゃくぼうごんげん)さん・不思議な出来事の多い山)
三角山の天狗
神主さんが山でお祈りをしていると、雨もふらないのにゴロゴローと大きな音が聞こえ、岩の上に人が飛び降りてきました。そして、神主さんのそばに立って睨めっこをした後、空に飛んでいきました。
このことを人に話すとそれは天狗ではないかいと言い、はじめて分かりました。
山を守る蝶
神様をよく拝む人が山にのぼると、大きな黄色の蝶が人を誘うように案内してくれます。神様をあまり拝まない人が山にのぼると、黒い蝶が出て、前が見えないようになり、一歩も進めなくなったり、がけから転げ落ちました。
つかまれた鼻
心のやさしい男の子に「はなたけ」というおできが出来ました。「宝積坊権現」さんにお祈りしたらと聞き、雨の日も風の日もお祈りに行きました。夜中に戸が開き鼻をつままれ外に引っ張りだされました。家の人が連れ戻し朝になると鼻はきれいに治っていました。
平成二十八年七月
用瀬地区まちづくり協議会
用瀬宿活性化委員会
頂上は巨石だらけで、説明板で紹介されているように、名称の付いたものがいくつかある。
これは「重石(おもいし)」である。重なっているのではなく重いのである。確かにそうだろう。
ここで注目したいのは、因幡国司であった在原行平が参拝し「ゆくさきをみすみのやまを…」という歌を詠んだというエピソードである。行平といえば「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」の百人一首で知られ、因幡にゆかりの深い人物である。詳しくは以前の記事「まつとし聞かば今帰りこむ(因幡編)」を参照してほしい。
「みすみのやま」の歌については、江戸時代の文献『因幡誌』にも記されている。第三法美郡登儀郷谷村「三角山」の項を読んでみよう。
村の上三軒茶屋の前街道端の山なり南の麓に巉岩をみる凡そ其景象三角なる山なりよく心を止めて見るへし孕める子山幾重も三角に峙り故ニ斯名付るにや又思ふに角の字をすみと訓ことは中古よりの事にて万葉集に紀国角田川をすみた川とよめるも誤りにてつぬ田川なりされは三つぬ山ならん歟其山の形角を突立たる如く也角古訓はつぬと訓り夫木集に「行さきをみすみの山を頼には是をは神に手向てそゆく」読人不知とあり此歌も角の字をすみと訓誤りての後のなるへし又は三隅と書しを後に角の字に誤れるも知かたし東国の隅田川も後のものには角の字に書誤れるもあり
「角」をスミと読むかツヌと読むか力説しているが、より重要なのは、在原行平の作とされた歌が、ここでは「読人不知」とされていることだ。「夫木集」とは『夫木和歌抄』で、鎌倉後期の私撰和歌集(藤原長清撰)である。探してみると、巻第二十雑部二題「山」に同じ歌が見つかった。
題不知 ゆくさきをみすみの山をたのむにはこれをそ神に手向つゝゆく よみ人しらす
この歌はやはり読人不知で、在原行平が詠んだという口伝は人々の願望の産物であろう。いや、それでよいではないか。詠者は不明というだけのことで、行平を否定しているわけではない。「みすみの山」と「神」が詠み込まれているなら、行平が三角山神社に参拝していたかもしれないのだ。
これが行平が見たかもしれない風景である。はるか向こうに見える冠雪の山は三国山だろうか。ここまで来たら鳥瞰どころか神の視点である。みすみの山に坐す神の歌を詠むことのできるのは、『古今集』真名序で「軽情如在納言」と謳われた在原行平しかいない。そう考えるのも自然なことだろう。
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