令和元年秋に鳥取市歴史博物館で「因幡×豊臣~豊臣政権と因幡の大名~」という秀逸な展覧会があった。因幡の大名といえば、中世なら山名氏、近世なら池田氏で、両者を結ぶ安土桃山期が豊臣系大名の時代である。軽く扱われがちだったこの時代にあえて着目した興味深い特別展だった。
豊臣系大名、因幡衆の中心となるのは宮部継潤(鳥取城)と亀井茲矩(鹿野城)であり、他に木下重堅(鬼ヶ城)、垣屋光成(桐山城)、磯部康氏(景石城)がおり、伯耆の南条元続(羽衣石城)も仲間である。
本日訪れるのは磯部康氏の景石城である。
鳥取市用瀬町用瀬に市指定史跡の「景石城跡」がある。
雅な風情のある流しびなで知られる用瀬は、古い町並みこそないが、因幡街道の用瀬宿であった。それ以前は景石城の城下町だったという。本丸跡からは用瀬の町が一望でき佐治谷を見通すことができる。説明板を読んでみよう。
景石城跡(本丸跡)(海抜325m)
この城は、南北朝時代の軍記 「太平記」に出てくる城で、延文元年(1356)赤松氏、因幡に進攻し手中に治めたとある。築城はそれ以前で、国侍の居城と考えられる。
山は急峻で、山頂付近には花崗岩が露出して屹立しており、自然の要害を形成している。
山頂本丸を中心に三方に広がる尾根には「曲輪」の跡があり、山頂部には本格的な石積みが見られ、他に、掘切、石段、矢竹の群落なども見られる。
戦国山城の特徴と近世城郭への改造部分が遺存している貴重な史跡である。
天正8年(1580)豊臣秀吉鳥取攻めの折、この城を攻略し、「磯部兵部太輔(いそべひょうぶだゆう)」を城主とした。
磯部氏はこの後20年間に亘ってこの地を治め、用瀬の地を城下町へと整備した。このことから、別名「磯部城」とも呼ばれている。その後、徳川の世となり、この城も元和元年(1615)「若桜城主山崎氏」の出城となるも、その年に端城禁制令により廃城となり、約260年に亘る歴史を閉じた。
城山周辺一帯には「馬洗場」「下城」「御屋敷」「権内屋敷」「水の手」等の地名が小字として残っている。
平成23年3月
用瀬もてなしの心地域づくり推進会
「戦国山城の特徴と近世城郭への改造部分が遺存している」という。確かに石垣を見ると、戦国山城からは格段に進化しているが、近世城郭ほどきっちりしていない。どのような建造物があったのか気になるところだ。
三角山に向かうルート上に「子持ち松砦跡」がある。
景石城の出丸と考えたらよさそうだ。三角山側からの進入路を写真下側の堀切で遮断している。説明板を読んでみよう。
子持ち松砦跡
子持ち松の名称は小字名に由来し、地元の人は「子持ち松さん」と呼んでいる。
景石城本丸から南に400m、景石城と同じ標高にあり、曲輪(10×17m)をはじめ、堀切り、堅掘等、砦としての入念な工作が施されている。
景石城、磯部城主館と三角形に位置しており、景石城を守る重要な拠点であったと考えられる。
平成23年3月
用瀬もてなしの心地域づくり推進会
砦は「景石城、磯部城主館と三角形に位置して」いるという。景石城へ戻り城主館側に下山することにしよう。
景石城の西麓に「磯部屋敷跡」がある。何段もの平坦地と石垣が残るのみだが、往時は権力の中心地だったのだ。
城主の磯部兵部太輔こと磯部康氏は山名一族で但馬の武将。秀吉の鳥取攻めに従って活躍し景石城主となった。20年にわたる治世は天下統一戦に朝鮮出兵と戦いが続いていたから、本丸からの眺望を楽しむ余裕はなかったかもしれない。
康氏は関ヶ原に際し特段の動きをしなかったが、関係の深い木下重堅が西軍についたため改易された。因幡衆の中で東軍について近世を生き延びたのは亀井氏だけである。康氏の子新七、新平は大坂の陣で大坂方について戦ったが討死したということだ。康氏の妹は重堅に嫁いでいたが、このことに関して楢柴竹造『八頭郡史考』(大正12)には次のように記録されている。
西軍大敗し、重賢(ママ)は摂津の天王寺に於て自殺す、其妻妊娠中なりしか夫の死を聞き、兄康氏に頼らんとす、康氏之を隠匿するを憚り拒で納れず、依て八東郡西谷村の民家に潜居し男を生む、後遂に農に帰す、
こうして生き延びた男児もいたのかもしれない。戦いに勝つか負けるか、いざという時に助けてくれる人脈があるかないか、そして本人が運命を切り開く持ち主かどうか。まことに戦国の世を生き延びるのは至難の業である。
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