芸能人のスキャンダルは後を絶たないが、近代にはスキャンダラスな作家が多かった。太宰治や有島武郎の破滅的な不倫は言うまでもなく、森鷗外のエリス来日事件、谷崎潤一郎の細君譲渡事件など、さしもの名声も吹っ飛びそうな醜聞である。人間の内面を赤裸々に描いた自然主義文学の名作、田山花袋『蒲団』も物議をかもした。
府中市上下町上下の府中市上下歴史歴史文化資料館の中庭に「岡田美知代生誕の地」と刻まれた石碑がある。「明治十八年四月十五日生」とあるから、野上弥栄子や柳原白蓮と同い年である。
生家の岡田家当主胖十郎(はんじゅうろう)は地元名士で、町長や県議を務めたほか、備後銀行の創設や上下高校の前身となる上下農学校の設立に寄与した。美知代は岡田家の長女として生まれ、地元の小学校を卒業後、名門神戸女学院に入学した。
明治36年、18歳の時に田山花袋に入門志願の手紙を送り、翌年上京した。ところが、美知代の恋愛を危惧する花袋から連絡を受けた父胖十郎は、同39年1月、娘を上下に連れ帰ってしまう。
その年の10月15日から翌日にかけて、出雲へ向かう花袋は上下の岡田家に逗留した。その時の模様は『日本一周(中編)』「備後の山中を経て三次へ」として発表された。一部を読んでみよう。
何故、この山の中が私の心を惹いたかと言ふと、其処の山の中に上下といふ町があつて、そこに私の弟子になつた若い女がゐた。その女は私の家に二年ほどゐたが、ある青年と恋に落ちて、そのことが知れて、父親が来て、無理やりにつれて行つて了つたのである。私もその女が好きだった。無論、恋といふものまでにはまだなつてをらなかったけれど、心はひそかにその女に向つてゐた。私は私の心をかくさなければならないやうな位置に身を置いた。その女に対しても厳(おごそか)なる父と柔しい恋の保護者との両面を兼ねなければならなかつた。
岡田家では師匠として歓待された花袋だったが、翌40年9月に「蒲団」を発表するやモデル問題で物議をかもした。さらに大正4年に「備後の山中を経て三次へ」を発表すると、美知代はこれに強く反発した。
ここで終わると、単にスキャンダルに巻き込まれた被害者でしかないが、岡田美知代女史の本質はここにあらず。ストウ夫人Uncle Tom's Cabinの本邦初完訳『奴隷トム』(大正12年)をはじめ、良家の子女が読みそうな著作を多く残している。
博文館の雑誌『少女世界』には「現代少女の新用語」というコーナーがあり、美知代(当時は永代美知代)が執筆していた。大正3年2月号では「ヂスオーダーレー」という言葉を次のように解説している。
秩序無き、不規律なる、無法の、乱暴の、不取り締のと云つた意味で、無性者(ぶしょうもの)の女学生を形容する言葉などに適当である。
『何と云ふ乱雑な身装(みなり)でせう。あれぢやあヂスオーダーレーな日常生活が思はれてねえ。』
disorderlyが新用語として紹介されている。上流の方々のご令嬢のあいだでは、このように使われていたのだろうか。時代思潮である教養主義が感じられる。orderlyで上品な上下の街並みを散策しながら、旧き良き大正浪漫に浸るのも一興であろう。
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