義民はよい人で騒動は悪いことだ。義民が起こす行動は騒動にあらずして義挙である。騒ぎで秩序が乱されたと思っているのは為政者であり、民衆にとっては社会正義の実現に立ち上がった恩人である。本日は義民ゆかりの地を訪ねたのでレポートする。
総社市新本に「義民碑」と刻まれた大きな石碑がある。書は犬養毅である。
義民と称えられている人々は、どのような行動を起こしたのだろうか。まずは説明板を読んでみよう。
新本義民
一七一七年(享保二)から翌年にかけて、当時岡田藩の支配下にあったこの新本地区で、農民たちが共有山の返還をめざして起こした百姓一揆をいいます。
共有山は従来、村の持ち山として村人たちが自由に使用していたもので、田畑の肥料や牛馬の飼料、薪などに使うなど、村人たちにとっては日常生活に欠くことのできないものでした。
一六一五年(元和元)備中十ヶ村の領主となった岡田藩主伊東氏は、正徳年間(一七一一~一七一五)には、新本地区の共有山の大部分を「お留山」とし、村人たちの立ち入りを禁止、さらにこの山の木を、当時藩庁の置かれていた岡田まで運ぶことを命じました。
「お留山」や材木の運搬などにより、村人たちの暮らしはますます苦しくなりました。このため村人たちは、「お留山」の返還、材木の運搬の中止を求め、藩庁に願い出ましたが、要求は受け入れられませんでした。そこで、江戸屋敷にいる藩主伊東播磨守長救(ながひら)に直訴しようと、六蔵、甚右衛門、喜惣次、仁右衛門の四人が江戸へ向かいました。
四人は、要求の提出に成功しました。その結果、村人たちの願いはほぼかなえられ、新本地区の山々は、以前のように村の持ち山になりました。
しかし、当時直訴は禁止されており、四人はこの近くの飯田屋川原で処刑され、その家族も追放されてしまいました。
この「義民碑」は、四人の功績をたたえ、その霊をなぐさめるために、処刑された場所近くのこの地に建てられました。表字は岡山県出身の総理大臣犬養毅により書かれています。
一九一七年(大正六)に義民四人衆二百年祭が行われ、それ以後、四人の遺徳をしのんで毎年夏に「義民祭」が行われています。
平成五年七月
総社市 総社市教育委員会 新本享保義民奉賛会
表題の「新本義民」の下二文字分が塗りつぶされている。おそらく「新本義民騒動」ではなかったか。この百姓一揆は一般にそう呼ばれている。藩主伊東氏には騒動であっても、地元の人々には正義の訴えであった。それゆえ削除されたのだろう。
命と引き換えに社会正義を実現したことに深く感謝し、四人衆に対する顕彰運動は犬養毅の心を動かし、新本小学校グラウンドでは今も義民踊りが続けられている。近年は小学生によるオペレッタ「義民さま」の上演も恒例となっているようだ。
石碑の裏面には、次のように記されている。
津梅 六蔵 七十七才
稲井田 仁右衛門 四十四才
小下 甚右衛門 四十四才
小砂 喜惣治 三十六才
為山訴訟両郷総代
上江府直訴自領主
因上記四人蒙死罪
享保三年水無月七
日於飯田磧相果矣
昭和二十七年初春建之
漢文を意訳しておこう。
共有山を巡る訴訟で、本庄(新本川右岸)・新庄(同川左岸)両郷の総代が江戸に登って藩主に直訴した。このため六蔵、仁右衛門、甚右衛門、喜惣治の四人は死罪を蒙り、享保三年(1718)六月七日に飯田屋川原で最期を遂げた。
小学校の北西、西明寺裏に「義民之墓」がある。
ここには義民四人衆のうち松森六蔵・荒木甚右衛門・森脇喜惣治の三名が眠る。説明板を読んでみよう。
市指定重要文化財(史跡)昭和四十年七月二日指定
義民埋葬地
江戸時代、享保二年(一七一七)~三年に備中岡田藩領の新本村(現総社市新本)の村民たちが共有山の奪還を目指して立ち上がった百姓一揆がありました。その時、村民の代表として江戸の岡田藩邸に直訴に行き処刑された四人の義民の墓です。
この地には、六蔵・甚右衛門・喜惣次の三人の墓があります。残る一人の仁右衛門の墓は同じ新本の稲井田奥の川村家の墓地にあります。
向かって右から
喜惣次(覚智玄了信士)
甚右衛門(覚心玄智信士)
六蔵(覚了玄心信士)の墓です。
平成十四年三月
総社市教育委員会
三名の檀那寺が西明寺ということらしい。
西明寺から新本川を挟んで南東に「義民之墓」がある。
ここには義民四人衆のうち川村仁右衛門の墓がある。説明板を読んでみよう。
市指定重要文化財(史跡)昭和四十年七月二日指定
義民埋葬地
江戸時代、享保二年(一七一七)~三年に備中岡田藩領の新本村(現総社市新本)の村民たちが共有山の奪還を目指して立ち上がった百姓一揆がありました。その時、村民の代表として江戸の岡田藩邸に直訴に行き処刑された四人の義民の墓です。
ここ川村家の墓地には仁右衛門の墓があります。他の三人の墓は同じ新本の西明寺西裏にあります。
平成十四年三月
総社市教育委員会
仁右衛門の檀那寺が近くにある圓尾寺ということらしい。
三十年くらい前だったか、新本義民騒動のストーリーをゲームブック形式にまとめたことがある。なるべく史実に沿うため、限られたパラグラフしかできなかったが、クリエイティブな作業のおかげで理解が進んだ。これはその一部である。
★2 みんなが集まって、次のような要求を岡田藩に提出しました。
おそれながら願い上げのこと
一、お殿様は、当村の草山を林山にするといって次々に留山にされました。そこで私どもの生活が困難となりましたので、村人203人は結束して留山の拡大をお断わりいたします。
一、お殿様のお慈悲をもって、留山を以前のような百姓たちの入会地に返してください。
一、薪の運搬について7月分を計算してみますと、人夫が4902人かかったことになります。それに支払われた賃金は非常にわずかなものですので、この作業もお断わりします。
しかし、藩から返事が来ません。お寺の住職が心配して藩の役人と話し合い、次のような案をまとめてくれました。
殿砂(とんざこ)より木村にいたる一帯の山野を開放して両住民の入会地とし、下草などを採集してもよい。
これに対して、多くの人が「この案は拒否し、お殿様に直訴して根本的な解決を図っていただこう」と言っています。
しかし、六蔵は「一応この案を受け入れよう。そして5年10年とかかっても要求を続けていこう」と言っています。
あなたならどちらに賛成?
・多くの人の意見 → ★5へ
・六蔵の意見 → ★3へ
その後、新本の里を訪れることもなく、時が過ぎてしまった。近年になって県道54号の玉島往来をよく通過するようになり、道沿いの郵便局で新本を再認識した。2年前の桜の季節に義民碑を訪れ、このたび義民の墓にお参りしたのである。
1917年(大正六)に義民四人衆二百年祭が行われ、2018年(平成三〇)には新本義民三百年記念式典が開催された。自分たちの村を守ろうとする気概と行動する勇気。政治的無関心が蔓延し、投票率が低下している今こそ、意思を届けようとする義民たちの姿勢に学ばねばならない。
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