『土佐日記』の紀貫之は船で都に帰っているが、行きは陸路だったらしい。それは淡路島から阿波に渡り、讃岐、伊予へと進み、瀬戸内海、宇和海沿岸を下って、西から土佐へ入る急がば回れルートである。現代なら国道56号のイメージだ。比較的平坦なので歩きやすかったようだ。
その後、四国山地を横断して南下する北山越えが開かれ、江戸時代には参勤交代に利用された。現代なら高知自動車道のイメージだ。明治になってから吉野川沿いに高知県に入る道が開かれた。国道32号である。今は土讃線も通過するメインルートとなっている。ここには四国を代表する名勝があるが、紀貫之は知らなかっただろう。もし目にしたなら何と詠んだだろうか。
三好市山城町上名(かみみょう)・西宇(にしう)、同市西祖谷山村徳善西(とくぜんにし)・ふしろ山・新道(しんみち)のあたりに「大歩危」がある。剣山国定公園に含まれる景勝地で、国指定天然記念物及び名勝「大歩危小歩危」として知られている。
上の写真は大歩危峡観光遊覧船のりば、中は背斜構造、下は少々見えにくいが獅子岩である。残留突起があごひげに見立てられている。この地の代表的な岩石は、玄武岩などが低温高圧で変成した緑色片岩で、結晶片岩の一つである。そう思って見ると、岩が総じて緑っぽい。
中生代白亜紀のこと。地中深く沈み込んだ付加体が高圧により再結晶し、地殻変動で地表へと上昇した。こうしてできたのが三波川(さんばがわ)変成帯。関東から九州にかけて分布する我が国を代表する地質構造区分の一つである。模式地の三波川は群馬県藤岡市にある。
歩くと危ないから歩危(ほけ)だとも、崩壊を「ほけ」と読んだとも、断崖を意味する古語だとも、語源には諸説あるが、いずれにしても通行には適していないということだ。紀貫之が大回りしたのも、藩主山内氏が山越えしたのも、大いにうなずける。
近代になって観光開発された大歩危は、文学の舞台ともなった。岡山県の津山出身、尾上柴舟(おのえさいしゅう)の『芳塵』(昭和十七年)には、「阿波の池田より土佐の高知にゆく途中の渓谷に大歩危小歩危の勝あり」という詞書に続いて、いくつかの歌が掲載されている。その一つを紹介しよう。
落ちながら裂けてつくれる岩のひま水は此処にししぶきを上ぐる
落、裂、しぶきと動きのある言葉が風景に似つかわしい。この躍動感は心の弾みでもあろう。舟遊びで歌を詠むというと平安貴族を思い起こすが、紀貫之は海賊に怯えながら船で帰京した。大歩危を船で楽しめるのは近代人の特権である。
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