ストレートな思いが若者言葉や英語に訳しやすいと評判で、元号の出典として高く評価される『万葉集』。今年は「和歌の浦誕生1300年」という記念の年に当たる。神亀元年(724)、この年に即位した聖武天皇が和歌の浦に行幸して1300年。帝に随行した山部赤人は「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る」と詠じ、歌は『万葉集』巻六(919)の名歌として人口に膾炙している。
『万葉集』を媒体として、人は時空を超えて気持ちをつないでいる。ヒストリカル・ネットワークを構築しているのだ。本日は万葉集フォロワーの一人平賀元義を採り上げよう。
岡山市東区大多羅町の布勢神社は、「平賀元義由縁(ゆえん)の地」として、市の史跡に指定されている。
由縁とはゆかりという意味だが、生誕地なら「柞葉(ははそは)の母をおもへば」、訪った場所なら「かけまくもかしこき那岐山」でレポートしている。ならば布勢神社は、どのようなゆかりがあるのだろうか。説明板を読んでみよう。
平賀元義由縁(ゆかり)の地
元義(1800<寛政12>~1865<慶応元>年、下道郡陶村<現倉敷市玉島陶>生まれ)は、新古今調の和歌が全盛だった幕末に、ひとりおおらかな万葉調の歌を詠んだ異色の郷土歌人で、明治になり正岡子規に万葉以来の歌人と絶賛された。
岡山藩士平尾家に生まれたが、不遇が続き、1832(天保3)年に脱藩、平賀左衛門大郎源元義と名乗り、備前、備中、美作の各地で放浪生活を送った。
晩年この布勢神社に滞在していた時、学才を認められ岡山藩主池田茂政(もちまさ)に出仕することとなったが、直前にして1865(慶応元)年、長岡の門人宅へ赴く途中、長利の村はずれの路傍で死去した。現在、この地は元義由縁の地として、岡山市指定史跡となっている。
歌碑が2基(短歌、長歌)残されている。
岡山市 平成9年3月設置
布勢神社は吟遊歌人元義が晩年に滞在した場所だった。歌碑がどこにあるのかと思えば、短歌のそれは上の写真のおむすび形石碑だった。昭和八年建立で、細かい刻字は次のように記されているという。吉備路文学館『吉備路をめぐる文学のふるさと』より
上山は山風寒しちちのみの
父の命(みこと)の足ひゆらむか 元義
お父上の眠る上山は山風が寒いことでしょう。おみ足は冷えていらっしゃいませんか。元義の父は平尾新兵衛長春といい、備前池田家の中老池田憲成の家老であった。文政十年十月十九日に亡くなった。享年五十一。晩年には中風を患い、足が冷えていたのだという。
『万葉集』巻十九(4164)に「ちちの実の 父の命 ははそ葉の 母の命 おほろかに 心尽して 思ふらむ…」という大伴家持の長歌がある。元義も同じ枕詞を使うことで、万葉調を醸し出している。
長歌の歌碑は石段の中ほどにある。元義は何と詠んだのか。説明板を読んでみよう。
平賀元義の偉れた長歌
皆人は あを老翁(オジ)といふ 皆人は
あを翁(オキナ)とふ よしゑやし 老翁とも
いへよしゑやし 翁ともいへ 黒髪は
いまだしらけず 白き歯は 黒くも
ならず 足すらも いまだいなへず
口すらも よくぞものいふ 此足の
踏たつ極み 此口の ものいふかぎり
太夫(マスラオ)の心振起(ココロフリオコ)し 八島国(ヤシマグニ)あるき回(メグ)らひ
古(イニシエ)の 御書押開き 御国ぶり 説(トキ)ぞ示さ米
事しあらば 火にも水にも 大君の
為にぞ死なめ 年は老(オイ)ぬとも
嘉永元年十二月二十九日野々口隆正及びある漢学者流のおのれを天伝ふ平賀の老翁(オジ)また平賀ノ翁(オキナ)なにとものに書たるをみていたく歎きてよめるうた
年寄りだと!?俺はこんなに元気だぞ。野々口隆正は津和野藩の国学者、大国隆正である。屋号は佐紀乃屋。もとの姓は今井、後に野々口に改め、大国主命をリスペクトして大国と称した。王政復古や神道国教化に大きな影響を与えた。偉人のもとには偉人の噂が伝わるのだろう。
近くの千福山宝泉寺に「平賀左衛門太郎源元義墓」と刻まれた墓碑がある。側面には「慶應元年十二月廿八日歿年六十六」とある。建立は大正七年である。
元義の最期については、羽生永明編『註解平賀元義歌集』(古今書院、大正14)の記述が参考になる。
然るに同月二十七日、門人中川清彦を長岡(今、上道郡財田村の大字)に訪はんとして中山家(引用者註:門人中山縫殿之助)を出で、其の夜は目黒村(今、上道郡可知村の大字)なる神戸某の家に宿り、翌廿八日早曉、酒を被り寒を衝きて長岡に向ひしが、醉余この奇寒に襲はれしことゝて、長利(今、財田村の大字)のあたりに差懸れる頃、忽ち脳溢血(卒中症)を起して途上に倒れ、やがて眠るか如くに凍死せり。享年六十六。人ありこれを中山家に告ぐ。縫殿之助奔走して、やがて之を大多羅(今、可知村の大字)の内、薬師なる自家の墓地内に葬りぬ。其の後、風雨幾春秋、寒草の中、さゝやかなる野面石の転べるあたり、知る人をして纔に此の文豪の眠れるを認識せしむるに止りしが、大正七年中、岡山県図書館司書有元氏の主唱にて、新に墓碑の建設成り、やがて有志の士相会して墓前祭を行ひ、後、大多羅なる中山家にて人々の持ち寄れる元義の遺墨展覧会あり、陳列品百数十點の多きに及びきといふ。
これと少々異なる内容が『岡山市史』人物編「平賀元義」の項に記されている。
年の瀬迫った十二月二十八日、滞在中だった大多羅の中山家を出て、上道郡関村の門人、前川左仲の家にゆくべく長利村(関も長利もいま岡山市)の村外れにさしかかったとき、路傍の小溝に落ちてそのまま凍死した。ときに六十六歳。遺骸は門人らが相談して大多羅の中山家の墓地に葬った。
大正七年吉備史談会の発議で墓碑がたてられ、碑面には阪正臣の筆になる「平賀左衛門太郎源元義」の十字を刻む。
元義が訪れようとしたのは、長岡の中川清彦か関の前川左仲か。『岡山市史』人物編を調べると、「前川清彦」の項に次のような記述がある。
国学者上田及淵について皇学を学び、橘笠陽にしたがって漢学を修め、平賀元義に師事して和歌を習った。安政四年数え年二十二歳で、上道郡長岡村(いまは岡山市)の神職前川家に養子となる。
清彦はもと難波氏だから、中川清彦は前川と中山(縫殿之助)を混同した結果だろう。とすると前川左仲か前川清彦かということになる。中澤伸弘「近世地方神職と和歌-『巨勢総社千首』の一考察-」という研究によれば、前川左仲は「備前国上道郡財田郷天神社神主」であり、平賀元義の門人であった。財田郷の天神社は今の岡山市中区長岡にある天鴨神社のことだろう。とすると、前川清彦が養子として入った神職前川家の当主は前川左仲ではないか。左仲の没年は不明だが、元義が亡くなった時に存命であれば、元義が訪ねようとしたのは左仲かもしれないし清彦かもしれない。いずれにしろ長岡の前川家ということになる。
不慮の事故で亡くなった元義。年明けから岡山藩に召し抱えられることが決まっていたという。この喜びを門人たちと分かち合いたかったのだろう。この頃に詠んだ歌である。
きはまりて貧しき我も立かへり富足(とみたり)行(ゆか)む春ぞ来向ふ
キターッと盛り上がっている最中に不幸が訪れる。禍福は表裏一体で、霧中を進むが如し。放浪の歌人と呼ばれるが、それだけのネットワークと求心力があったからだろう。元義の死を悼みながら、吉備のまほろばを歌に残した足跡に感謝したい。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。