平安絵巻の傑作『吉備大臣入唐絵巻』は、アメリカのボストン美術館所蔵である。ロゼッタ・ストーンの返還を求めるエジプト人のように悔しいのだが、『絵巻』は奪われたのではなく売られてしまったのだ。その意味では、アラスカを売却して後悔しているロシア人に共感する。
本日は、吉備真備が吉備の地でいかに顕彰されているのかレポートし、本特集の締めとしたい。
岡山県小田郡矢掛町東三成の吉備大臣宮境内に「右相吉備公館址詩碑」がある。作者は阿藤伯海(あとうはくみ)。最後の漢詩人とも呼ばれる浅口郡六条院村出身の文学者である。大簡とも号した。
碑には次のように刻まれている。
右相吉備公館址作
往学盈帰日昭昭長徳音礼容明両序文字迄当今
銜命扶桑重顧恩滄海深規模遵聖訓吁咈靖宸襟
大節絳侯業中興梁国心上天無忒道衆口欲銷金
寵辱豈須説風懐久更尋宮梅賢士筆澗月逸人琴
旧館浮雲静遺墟喬木森饑鷹伏祠屋狡鼠竄叢林
花落孤邨夕草生華表陰兎冊幼童集時祭野翁臨
想見三朝政誰疑右相忱我生千歳晩掩涙対蒼岑
昭和四十年乙巳三月 備中 阿藤大簡
冒頭の「往学盈帰」は、『続日本紀』第三十八巻延暦三年三月二十五日条に出てくる勅語の一節である。
故右大臣 往學盈歸 播風弘道 遂登端揆 式翼皇猷
故右大臣 往きて学び盈(み)ちて帰る 風を播(ほどこ)し道を弘め 遂に端揆(たんき)に登る 式(も)って皇猷(こうゆう)を翼(たす)けたり
亡き右大臣は、唐に留学して大いに学んで帰国し、新たな気風を起こして進むべき道を広めた。ついに右大臣に登って、政治に多大な貢献があった。桓武帝はそのように称えている。
「文字迄当今」は、真備が考案したカタカナが今日まで使用されていることを指す。
「大節絳侯業」は、国家存亡の重大事に帝室を守護して右丞相となった漢の周勃(しゅうぼつ)に真備公をなぞらえている。
想ひ見る三朝の政 誰か疑はん右相の忱(まこと) 我れ生るること千歳も晩(おそ)し 涙を掩(おほ)ひて蒼岑(さうしん)に対す
聖武、孝謙称徳、光仁の三代にわたり、右大臣吉備真備の誠実さは疑いようがない。私は生まれるのが千年遅かった。墓所を前にして涙を蔽っている。
格調高く真備公の事績を顕彰している。
倉敷市真備町箭田の吉備公廟に「吉備公墓碑」がある。
重厚かつ凛とした品格をもつ美しい石碑だ。漢字ばかりの碑文だが、幸いなことに説明板に書き下し文があるので読んでみよう。
吉備公墓碑
備中国下道郡八田村は我が封内にかかわる。村に吉備公の墳あり。年祀綿藐、何人のたてたる所なるを知らず。今ここに弘化丁未、厳君長之に命じて曰く「公の文学功勲古今に照映するは天下の知る所なり、たゞこの墳その久しうして湮滅するを恐るゝ故に、いしぶみにして之を明章せんと欲す、汝それ之を銘せよ」と。長之辞する能わず、謹んで按ずるに公のいみなは真備、父は右衛士の少尉下道の朝臣圀勝たり、その先は吉備津彦命より出で代々吉備に居る。霊亀中、従八位の下をもって遣唐留学生となる、時に齡わずかに弱冠を超ゆ。経史に通明し、かたがた衆技に達す。我が朝の学生にして文名を異朝に馳する者公をもって先となす。孝謙帝太子たるの時、召して学士となし恩寵特にあつし。天平十八年十月吉備の朝臣の姓を賜い、右大臣に累遷す。初め大学釈典の儀未だ備わらず。公すなわち礼典を考え器物始めて備わる、ここに於いて礼容燦然観るべし。藤原の仲麻呂の反するや、公その必ず走るをはかり、兵を遣わして之をむかえうつ。その策略指揮みな機宜に合し、旬を経ずして賊すでに平らぐ、その天下に勲労有るかくの如し。あゝ公の文学功勲赫然照映、今に至って朽ちず、もとより言を假るなし。今厳君の命、それ銘して之を表せざる可けんや。公は持統帝七年癸巳三月二十八日に生まれ、寶亀六年乙卯十月二日薨ず、年八十三。進退去就の義に至ってはすなわち世おのずから公論ありまた議せず。銘に曰く王道を尊崇し礼楽を経緯す、文運もって盛んに武功また卓たり、これ公の郷、流風永く存す。こゝに石碑に刻み民をして忘れざらしむ。
弘化四年歳次丁未冬十月
領主 伊東播磨守藤原朝臣長寛立石
長之恭撰
男
長生敬書
墓碑を建立したのは、岡田藩第8代藩主伊東長寛公である。厳君が長之に銘文をつくれと命じている。厳君とは父長寛で、撰の長之も書の長生もその子である。弘化四年は1847年、先人顕彰の先駆的偉業といえよう。「維公之郷流風永存」我が藩地は吉備真備公のふるさとである。文武に優れた公の美風が今に受け継がれている。領主としての誇らしさが伝わる。
真備町のこの地を吉備真備公の墓だと認定したのは、岡田藩第4代藩主伊東長貞公。元禄年間、真備公の墓との言い伝えられてきた場所の発掘を命じ、脛の骨が発見された。長貞公は元禄六年(1693)に亡くなるから、発掘は元禄初頭のことだろう。その後、墓所は「吉備公廟」として整備される。
いっぽう矢掛町の下道氏墓から真備公祖母の骨蔵器が出土したのは、元禄十二年(1699)のこと。この地を領していた庭瀬藩第2代藩主板倉昌信が、同家祈願所の寺に「光助霊神宮(こうじょれいじんぐう)」を設けて骨蔵器を納め、寺名を「圀勝寺」と改称した。
おそらく実際には大和生まれの吉備真備公は、元禄年間に岡田藩領、庭瀬藩領それぞれで誕生し、藩主や地元の方々によって祀られ育まれてきた。藤原仲麻呂、称徳天皇、道鏡という濃いキャラクターがめぐらす権謀術数の奈良朝にあって、泥中の蓮の如く凛とした存在感を放っている。真備公ゆかりの二つの公園には、その人柄を慕う人が多く訪れている。
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