「売り家と唐様で書く三代目」という。初代が一代で築いた地位も名声も財産も、三代目ともなるとすべて失ってしまう。遊びふけってきたおかげで字だけはオシャレに書ける。世襲で権力を引き継ぐのは至難のことである。遠く異朝をとぶらえば秦の始皇帝、近く本朝をうかがふに平清盛に源頼朝。今日紹介する家は、見事な成功例である。
岩国市横山二丁目に「吉川家墓所」がある。県指定史跡である。
上の写真は、右から岩国第2代領主・吉川広正、その妻・竹姫、第3代領主・吉川広嘉の墓である。吉川広正は吉川氏18代目に数えられるが、14代興経と15代元春との間には大きな区切りがある。言ってしまえば毛利元就によるお家乗っ取りである。送り込まれた元春は期待に応え、小早川隆景とともに毛利両川の一翼を担って主家を支えた。
その子で17代目となる広家の功績はたいへん大きい。先見の明があるとは彼のことだ。関ヶ原では東軍と西軍の間をうまく駆け回り、主家毛利輝元の改易を回避した。その輝元の長女・竹姫を正室に迎えたのが18代広正である。
広正は、長州藩主・毛利秀就、綱広の後見を務めるなど、よく主家を支えた。岩国にあっては錦川に架橋事業を行い、これが後の錦帯橋へとつながっていく。19代広嘉は広正と竹姫の間に生まれた。錦帯橋を完成させたことで、岩国の領主としては最も有名である。
広嘉に『西湖遊覧志』という書物を紹介し、落ちない橋、錦帯橋のデザインに重要な示唆を与えたのが、明からの帰化僧、独立性易(どくりゅうしょうえき)であった。墓所の選定を行ったのも独立であった。3基の墓石前に示されている戒名を記しておこう。
吉川広正 : 浄性院殿前倉部鉄堂宗閑大居士
竹姫 : 高玄院殿超誉珠英大姉
吉川広嘉 : 玄真院殿前城門郎快巌如心大居士
このうち、「浄性院」「高玄院」の味のある文字は、独立性易が書いたものだという。広正の「倉部」は内蔵助の唐名、広嘉の「城門郎」は監物の唐名である。ちなみに竹姫は生前一度も岩国を訪れたことがないそうだ。
岩国領の2代、3代と慢心することなく仕事きっちり、立派な事績を残している。近くの世襲共和国も3代目となっている。強がって見せていたかと思ったら、このたび国内で開催の国際大会で韓国の国旗・国歌を初許可するなど柔軟な対応を行うようだ。3代目もなかなかどうして、したたかである。