父と一緒の家族旅行で唯一記憶しているのが姫路城へ行ったことである。新幹線ではなく鈍行列車の旅だった。小学校何年生だったか、歴史に興味を持ち始めたころのように思う。お土産として絵葉書を買ってもらった。通常よりサイズの大きな迫力のある絵葉書だった。私の歴史紀行の原点は姫路城にあるのかもしれない。
姫路市本町の「姫路城」は大天守保存修理事業の真っ最中である。平成21年10月に始まり、平成26年度末に終了する。写真は1年程前のものである。本来なら大天守が見えるはずだが、素屋根に描かれた天守閣が見えている。
今回の平成の大修理は漆喰の塗替えや破損瓦の取替えなどを行うそうだ。「白鷺城」という雅名に一段とふさわしい輝きをやがて目にすることになるだろう。
昭和31年から昭和39年には、全面解体の「昭和の大修理」が行われた。この時、天守閣を支える2本の心柱のうち、西の心柱は腐食がひどいので取り替えることになった。樹齢700年以上のヒノキ材が必要だったが、そう簡単には見つからない。工事事務所主任は、文字通りわらじがけで全国の山を探し歩いたのだそうだ。
そしてどうなったのか。姫路城編集室発行『姫路城ガイド』を読んでみよう。
高知県の山奥ですばらしい候補材が見つかった。加藤主任はもちろん飛んで行った。立派なヒノキで注文どおりの太さと長さであった。しかし、この山中から運び出し、海上を姫路まで送り届ける経費が大変だった。運搬費だけでも、当時三百万円はかかるといわれたからだ。断念せざるを得なかった。
そのつぎのは、木曽国有林で見つかった。ここからは森林鉄道があるので搬出も便利だ。払い下げが決定し、無事に伐り出しも終ったが、森林鉄道で運び出す途中、トロッコの積み替え作業中転落、せっかくの良材がまん中からポッキリ折れてしまった。それでもこのヒノキは姫路まで運ばれ、地元の神崎郡市川町上瀬加、笠形神社の氏子から寄進した神木のヒノキを継ぎ足し、西の心柱の役目を立派に果している。
世界に誇る名城となるまでには、大変な苦労があったのだ。美しいと感じるだけではいけない。美しさを維持する努力にも思いを馳せたほうがよい。
今回はお土産に絵葉書ではなく、白鷺陣屋の「五拾萬石」を買った。求肥と餡の取り合わせが絶妙で大変おいしい。平成20年の姫路菓子博2008で橘花榮光章を受賞したそうだ。
「五拾萬石」の名は、今に残る姫路城を築いた池田輝政の時代の石高、52万石にちなんでいる。慶長十四年(1609)の築城である。その後、本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏と藩主はどんどん交代していくが、ほとんどは15万石だった。
つまり、このお菓子は姫路が最大領域を誇った栄光の時代を伝えているのだ。その栄光の時代の象徴は、まさにあの天守閣であった。再び姿を現したなら、子供を連れて行ってみようかと思う。
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