今回で記事が700本に達しました。数あるサイトの中から「紀行歴史遊学」にアクセスしてくださいまして、誠にありがとうございます。今後も読む気になるような文章記述になるよう努め、意義ある史跡を紹介してまいります。御愛読のほど何とぞよろしくお願い申し上げます。
700本目となる記念の記事は、長崎から江戸へ旅した象の終焉である。時は享保13年(1728)6月19日、ベトナム生まれの象が長崎に上陸した。八代将軍・徳川吉宗の所望によるものである。
牝牡2頭来たがメス象は長崎で死亡した。オス象は享保14年(1429)3月13日長崎を出立し、4月11日備中川辺に泊まり、4月28日には朝廷に参内し、中御門天皇、霊元法皇に謁した。象は「広南従四位白象」に叙せられた。
それから象は東海道を下り、5月27日に将軍吉宗の上覧の栄に浴したのであった。しばらくは浜御殿(現東京都立浜離宮恩賜庭園)で飼われていたが、寛保元年(1741)4月に中野村の源助に預けられた。源助は浜御殿から象の糞を貰い受け、「象の泪(なみだ)」という薬として売り出した知恵のある百姓である。
中野区本町二丁目の朝日が丘公園のあたりは「象小屋(象厩)の跡」だという。
中野坂上駅に通勤の人が急ぐ。かつて象が飼われていたとは思えないような普通の公園である。立ち止まるのは私だけだが、気にせず中野区教育委員会の説明板を読んでみよう。
江戸名所図会(めいしょづえ)に「中野に象厩(きさや)を立ててそれを飼わせられし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったといわれています。
当時、象は、まだ珍しい動物で、人々の好奇心をそそり、「象志」「馴象論」「馴象俗談」などの書物が出版され、また象にちなんだ調度品、双六(すごろく)や玩具類もさかんに作られました。
中野に来た象は、享保十三年(一七二八)中国人貿易商鄭大威(ていたいい)が将軍吉宗に献上するため、ベトナムからつれて来たもので、途中、京都で中御門天皇と霊元法王の謁見(えっけん)を受け、江戸に着いて将軍吉宗が上覧したあと、しばらく浜御殿に飼われていました。のち、中野村の源助にさげわたされ、源助は、成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが、寛保二年(一七四二年)に病死しました。死後、皮は幕府に献上され牙一対(きばいっつい)は源助に与えられました。この牙は宝仙寺(現 中央二丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。
象が病死したのは寛保二年(1742)12月11日、享年21。中野村での生活は1年8か月であった。象の鼻の皮と牙、頭骨は源助に下げ渡された。彼の死後は宝仙寺(中野区中央二丁目)の寺宝となっていたが、昭和20年5月25日の空襲によって被災した。
昭和24年、インドのネール首相は、子供たちの願いに応えて上野動物園にメス象「インディラ」を贈った。象は国際親善大使なのである。初代大使が今回紹介した源助の象かと思ったらそうではない。それまでに5例あり、応永十五年(1408)、天正二年(1574)、天正三年(1575)、慶長二年(1597)、慶長七年(1602)だそうだ。
しかし、享保以前の象については、渡来後の様子が伝わっていない。これに対して、享保の象は長旅のおかげで各地に記録が残り、瓦版に描かれ、狂歌に詠まれ、歌舞伎の舞台『象引』となった。とても優秀な国際親善大使であった。
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