名は体を表す。分かりやすいのは「京都府」で、「京」も「都」も「府」も「みやこ」の意味だ。さすがは千年の都である。それに比べたら「東京都」なんぞ歴史が浅い。ましてや「大阪都」は…。僭称のそしりを受けないことを願っておこう。
福井市大手3丁目の福井城天守閣跡に「福の井」がある。城跡には県庁が建ち、今も政治権力の中心地として機能している。
この城と井戸について説明した石碑が近くにあるので読んでみよう。
ここは福井城の天守閣跡である。福井城はもと北ノ庄城と称せられ、慶長六年福井藩祖徳川秀康之を改築して、ここに天守閣をきずいた。爾来明治維新まで約二百六十年間、当城は福井藩主松平家の居城であった。
ここにある古い井戸は福の井と称せられ当城の改築以前からここに存し、名井として知られていた。寛永元年(紀元二二八四年)当地の名称北ノ庄が福井に改称されたが、その由来はこの福の井の名に因んだものと伝えられている。
ここが福井発祥の地ということだ。寛永元年は西暦では1624年だが、2284年とあえて神武紀元で記しているのも興味深い。寛永元年とはどういう年か。天皇には関係がないので2284は気にしないでいただきたい。『福井城下ものがたり』(舟沢茂樹、福井PRセンター)を読んでみよう。
寛永元年七月、越前に入国した忠昌は早速居城の地北ノ庄を福居と改めた。北ノ庄の「北」は敗北に通じ武門にとって不吉だというのである。事実柴田勝家をはじめ父の結城秀康、兄の松平忠直等いずれも越前国主であった武将は不運であった。なお、福居を現在の福井に改めたのは元禄年間のことといわれている。
「福井」の由来は井戸なのか縁起を担いだのか。確かに柴田勝家は北ノ庄城落城とともに敗死し、結城秀康は34歳の若さで没し、松平忠直は不行状のかどで領国を没収される。代わって第3代藩主として入国したのが、忠直の弟である忠昌であった。
その後の福井藩が安泰であったかといえば、そうでもない。第6代藩主綱昌が貞享三年(1686)に乱心により改易となる。それでも将軍家との特別な関係から家格を回復して、幕末の名君、松平春嶽を輩出するのである。
2011年11月に法政大学大学院政策創造研究科の坂本光司教授が「47都道府県幸福度ランキング」を発表した。堂々の第1位に輝いたのが福井県である。未婚率が低く出生率が高いので幸福な家庭像を見て取れるのだそうだ。縁起の良い地名で暮らしているのは、本当に幸福な県民であった。