格式の高い寺院を門跡といい、宮門跡には法親王となった皇族が入っていた。幕末史に登場する輪王寺宮や仁和寺宮らが法親王である。興福寺一乗院も門跡寺院であったが廃仏毀釈で今はなく、法親王の墓地を残すのみである。
奈良市雑司町の東大寺に「尊覚親王以下二基 一乗院宮墓地」がある。石柱には「後陽成院天皇皇子 尊覚法親王御墓」「後水尾院天皇皇子 真敬法親王」と刻まれている。
宮内庁管理の陵墓なので解説がない。そこで平岡定海『東大寺辞典』(東京堂出版)で調べてみた。「真敬法親王」の項である。
慶安二-宝永三(一六四九-一七〇六)後水尾天皇の皇子で、はじめ登美宮と称した。明暦四年(一六五八)六月九日に親王となり、常賢と称されたが、万治二年(一六五九)四月六日尊覚法親王について得度し、寛文五年(一六六五)三月二十六日に二品に序せられた。真敬法親王は寛文五年興福寺一乗院に入り、興福寺別当となった。
貞享三年(一六八七)十八日の後光明院の三三年忌追善御八講が清涼殿で行われたとき惣證義として参じている。また貞享四年二月一六日に東大寺大仏殿前の大香炉を寄進され、また元禄五年(一六九二)三月八日より四月八日までの大仏開眼供養にあたっては、勧修寺済深法親王とともに供養導師をつとめている。宝永三年七月七日五八歳で入滅され、三菩提院と称され、東大寺真言院の西に葬むられた。
尊覚法親王については掲載されていなかったが、この記事から真敬法親王の師に当たる方のようだ。記事の中で注目すべきは元禄5年の「大仏開眼供養」である。東大寺の大仏は三度開眼している。752年、1185年、1692年である。
まず、聖武天皇や行基の尽力で大仏が造立された。源平合戦期には平重衡の南都焼討により大仏は焼け落ちたが、ほどなくして重源の尽力で再建された。さらに、室町末期には三好三人衆と松永弾正との戦いにより再び焼け落ちた。頭部は木像に銅板を張って応急処置されたが、長く露座のまま放置された。それを嘆いた公慶上人の諸国勧進によって現在の大仏が再建された。松永弾正の戦いは1567年だから、再建までに随分と時間がかかっている。
2005年は公慶上人の没後300年であった。『あかい奈良』という雑誌の2005年冬号には「近代奈良観光の原点 元禄の大仏開眼」という記事が掲載された。その一部を引用しよう。
元禄五年の大仏開眼供養会は、期間が一カ月。公慶さんは勧進に応えてくれた人々に全国から参詣してもらうため、当初は半年くらいと思っていたようだが、受け入れ態勢を考えると、それは無理ということで、一カ月に落ち着いた。
この間、奈良を訪れた人は約二十二万人。当時の奈良の人口が二万から三万人というから、その約十倍である。東大寺では、参詣途中で行き倒れた人を治療するために、お医者さん六十人を待機させ、迷子センターを設置するという配慮もした。
公慶上人の名プロデュースによる大イベントで奈良は1カ月にわたって大いに賑わった。その中で、真敬法親王は供養導師という主要な役割を果たした。今目にする大仏さまの開眼、そして近代奈良観光の原点に立ち会った貴重な証人である。法親王のお墓へのお参りの後に、私は平城遷都1300年祭に向かった。この祭典の会期が6カ月半ほどである。公慶上人の半年という構想は実に先見の明があった。