『奥の細道』は道の奥だから「みちのく」で、東北地方にばかり目を奪われていた。今日は越前の細道である。芭蕉の出発地については以前に「奥の細道の起点」としてレポートしたことがある。ここを元禄2年(1689)3月27日に出立して東北地方に向かい、越後路に抜けてからは日本海に沿って西へと進み、越前の名刹・永平寺に立寄った後に福井へやってきた。元禄2年8月11日のことである。
福井市左内町の左内公園に「芭蕉宿泊地洞哉宅跡」がある。芭蕉が宿泊した洞哉(とうさい)という俳人の家があった場所である。
手元に『カメラ紀行奥の細道を行く』(読売新聞社)がある。平成元年が奥の細道300年記念に当たるということで連載された記事をまとめたものである。この本にも芭蕉宿泊地跡が紹介されていた。原文を読んでみよう。
福井は三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出(いず)るに、たそかれの路(みち)たど/\し。爰(ここ)に等栽(とうさい)と云(いふ)古き隠士(いんし)有(あり)。いづれの年にか、江戸に来(きた)りて予を尋(たづぬ)。遙(はるか)十とせ余(あま)り也。いかに老さらぼひて有(ある)にや、将(はた)死(しに)けるにやと人に尋(たづね)侍(はべ)れば、いまだ存命して、そこ/\と教ゆ。市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいへ)に、夕貌(ゆふがお)・へちまのはえかゝりて、鶏頭(けいとう)・はゝ木ヾに戸(と)ぼそをかくす。さては、此(この)うちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(いで)て、「いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の御坊(ごぼう)にや。あるじは此(この)あたり何(なに)がしと云(いふ)ものゝ方に行(ゆき)ぬ。もし用あらば尋(たづね)給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情(ふぜい)は侍れと、やがて尋(たづね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立(だつ)。等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、路の枝折(しをり)とうかれ立(たつ)。
福井は三里ほどなので、夕飯を食べて出たら、夕暮れ時の道は思うように進めない。ここに洞哉という昔からつきあいのある俳人がいる。いつの年だったか、江戸に私を訪ねてきたことがある。もう10年あまりになろうか。どのように老いさらばえたのか、もしや死んだのではと人に尋ねると、生きていてここに住んでますよと教えてくれた。町中にひそかに隠れ住むように小さな家があり、夕顔やヘチマが伸び、ケイトウや箒木が戸を隠している。さてはこの家だろうと門をたたくと、みすぼらしい女が出てきて「どちらからお越しのお坊さまでしょうか。主人はこのあたりの何とかという者の家に行っております。もし用事がございますならば訪ねてみてくださいませ」という。この人が妻に違いない。昔の物語にこんな雰囲気があったなあと思いながら、洞哉を訪ねると会うことができた。洞哉の家には二晩泊まって、名月は敦賀で見ようと旅立った。洞哉は見送りに出てくれ、着物の裾を変にまくり上げて、楽しげに道案内をしてくれた。
旧友と再会できる高揚感が生き生きと伝わってくる。昔の物語とは『源氏物語』「夕顔」のことらしい。洞哉の家の描写も絵のようだ。実際に与謝蕪村が『奥の細道画巻』に洞栽宅を描いている。ここ左内公園は当然ながら橋本左内の存在が大きく、芭蕉の旧跡はそれほど目立たない。むしろ、ひっそりとした雰囲気が芭蕉好みでよいと思う。
芭蕉が洞哉宅にやってきた8月11日は、陽暦では9月24日に当たる。季節は秋を深めていく。芭蕉は敦賀へ向かい大垣で旅を結ぶ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。