国語の教師で奥の細道ゆかりの地を巡る旅を何年間にもわたってやっている人がいた。月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり、人生は旅そのものJourneyであることを実感しようとしていたのだろう。
江東区深川2丁目に「採荼庵(さいとあん)跡」がある。おや、誰か旅支度の方が腰掛けていらっしゃる。
茶人帽で旅姿といえば、あの松尾芭蕉さんだ。ここにどのようなゆかりがあるのだろう。碑文を読んでみよう。
芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ、深川芭蕉庵もその持家であったが、また平野町内の三百坪ほどの地に採荼庵を建て、みずから採荼庵と号した。芭蕉はしばしばこの庵に遊び、「白露もこぼさぬ秋のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄二年奥の細道の旅はこの採荼庵から出立した。
『奥の細道』の冒頭に次の一節がある。テキストは読売新聞社『カメラ紀行 奥の細道を行く』に掲載のものである。
住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
この「杉風が別墅」というのが「採荼庵」のことである。『カメラ紀行 奥の細道を行く』のあとがきに面白い話を見つけた。奥の細道の旅立ちから三百周年の平成元年に出版された本ならではである。
今回の取材で、杉風との不思議な縁にめぐり逢った。
栃木市内の老舗のホテル内で、「杉風」という料亭を見つけた。主人は、鯉屋杉風の子孫で、お嬢さんがNHKの朝のテレビ小説「純ちゃんの応援歌」のヒロイン山口智子だった。細道の旅から三百年。ゆかりのある人が、ブラウン管を通して茶の間の人気者になっていたのだ。
「弥生も末の七日」は元禄二年三月二十七日、未明に舟で旅立ったのであった。
この時、芭蕉が舟を浮かべたのが「仙台堀川」である。川名は仙台藩の蔵屋敷があったことによる。この川から隅田川に出て遡上し、千住で舟から上がった。あの国語の先生はどうしたのだろう。採荼庵から出発して千住へ向かったのだろうか。それも水上バスを利用して。人生は先人の跡を追うことでもあるのだ。