マラソンの君原選手は苦しくなると「あの電柱までは」と手近な目標を立てて走ったという。おそらく江戸時代の旅人も一里塚にたどり着くと「ここまで来たか」と振り返ったに違いない。電柱であれ一里塚であれ、人が足を前に進めるうえで目印の役割は大きい。
長野県北佐久郡御代田町大字御代田に「御代田一里塚」の西塚がある。
かくも美しく保存された一里塚はなかなかない。道から離れた場所にあることが要因だそうだ。道から離れた場所に目印を設けたというのか。『御代田町誌図説編』を読んでみよう。
町内大久保の一里塚は、両側にある。両塚に桜が茂る。ほぼ原形をとどめるなどと貴重である。なお、中山道では樹種が桜はここだけである。当初から桜だったかは、樹齢から疑問は残るにしても注目に値する。
当時は推定5メートル幅の道が両塚の間を通っていたと思われる。いま残る旧街道から離れたのは何年ころのことであろうか。道は寛永十二年(一六三五)の中山道改修前のものであろうから、開通後四十年にも達せず役目を終わったことになる。
町誌の写真を見ると、対になっている東塚にも桜の木があったようだが、今はなくなっている。よく道は人生に例えられ、坂道だとか曲がり角だとか、人生を形にして見せてくれる。一里塚もそうだ。人生の一里塚は、結婚して子どもが生まれることか、何十歳の大台にのることか。やはり「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」(一休和尚)が最も分かりやすい例だろう。
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