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殿様が守った古代の文化財

遠江は「とおとうみ」と読むが、古くは「とほつあふみ」といい、遠つ淡海と書く。この「つ」は格助詞で、遠くの湖つまり浜名湖を意味していた。ちかつあふみは、もちろん近江である。

古代吉備の豪族に、下道氏と上道氏がいる。「しもつみち」と「かみつみち」と読み、西が下道氏、東が上道氏という位置関係だ。山陽道において都に近い上手を本拠とする上道氏については、以前の記事「15階級特進の栄誉」で紹介した。今回は下道氏をレポートしよう。

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岡山県小田郡矢掛町東三成に「下道氏墓(しもつみちうじのはか)」がある。国の史跡に指定されている。

今のように墓石に戒名や俗名が刻まれているわけではないのに、どうして下道氏の墓だと分かったのだろうか。説明の石碑を読んでみよう。

下道氏公園
郷土の偉人吉備真備公が中国の優れた文物を請来して千二百五十年に当るのを記念し公の学んだ中国西安市に顕彰碑が建立された。これにちなみ公の先祖下道氏の当墓域に公園を整備し遺徳を顕彰するものである。
史跡下道氏墓
元禄十二年この地から吉備真備公祖母の銅製骨蔵器が発見された。これには公の父下道圀勝とその弟圀依二人の母の骨蔵器である旨が記されており国の重要文化財に指定されている。又墓誌等も発見されたこの一帯が公の先祖下道氏の墓域と明定され奈良時代の火葬墓制遺跡として大正十二年三月七日国史跡に指定された。
昭和六十一年三月
矢掛町

なるほど、出土した銅製骨蔵器の銘文から下道氏の墓であることが分かったのだ。しかも下道圀勝の子が有名な碩学政治家吉備真備である。さらに奈良時代の墓制が分かる貴重な遺跡だ。国の重要文化財に指定されるだけの理由がある。

銅製骨蔵器は「銅壺(どうこ)」として国重文に指定されている。その銘文は次のように刻まれている。

銘 下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破
以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成

和銅元年は708年、元禄十二年は1699年。千年の時を経て骨蔵器はどのように見つかったのだろうか。矢掛町で吉備真備を顕彰する吉備保光会が出版した『吉備公遺蹟誌』には、来歴が二つ紹介されている。

元禄十二年十一月十一日東三成村字折坂弥左衛門が子連夜の夢により山道の中を掘れば土瓶あり下に又一あり其中に石灰にて詰め赤銅金二升五合程入瓶に骨八合程あり、瓶の蓋に取手あり筋ニッづゝ二通あり、其上筋に和銅元年戊申十一月二十七日とあり下の筋に銘下道國勝云々ありと云ふ。

備中東三成村の内に下坂とて山道あり此所往古は下道氏御墳墓の地と見へたり、此所霖雨にくづれて人の通ふ道となりたり、其道に石一ッ(かめのふたなり石の如きもの)あって上をふめば下にひゞきあり、里人あやしく思ひ石をかへしければ其下に○蓋を破り見るに内に銅の器あり中に彼尊骨あり、享保年中に光助霊神尊号を勅許あって、御骨器は椁を作りて奉納社を建立し可奉祭由、先御領主様より被仰出地藏院と申す寺を國勝寺と自仁和寺御改名遊ばされしなり。

夢のお告げというといかにも霊験あらたかな由緒だが、信憑性の点から首を傾げざるを得ない。だが骨蔵器の良好な保存状態から考えると、石灰の中に埋納されていたとも考えられる。道の石を踏んだら響きがあったというのは、発見のきっかけとして分かりやすい。

発見後は、この地を領していた庭瀬藩第2代藩主板倉昌信が、同家祈願所の寺に「光助霊神宮(こうじょれいじんぐう)」を設けて骨蔵器を納め、寺名を「圀勝寺」と改称した。殿様が骨蔵器を安置する社殿を設けたのが享保十二年(1727)、「光助霊神宮」の神号が京都吉田家から与えられたのが翌十三年、板倉家祈願寺を中蔵坊から圀勝寺と改称したのが十五年である。享保年間に保存顕彰が一気に進んだようだ。

そういえば、あの国宝金印も江戸時代に発見されている。筑前志賀島の百姓甚兵衛さんが天明4年(1784)、二人持ほどの石の下から見つけたという。現代でも「岩宿の発見」や小中学生の大発見という事例がある。今後も何かビッグニュースが飛び出すだろうか。地面を踏む時の音にも耳を傾けたいものである。


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