今年は『古事記』編纂1300年で、出雲、淡路島、大和郡山などゆかりの場所で記念イベントが行われているようだ。出雲は国譲り、淡路島は国生みの神話で有名だ。大和郡山は稗田阿礼の出身地ということだ。『古事記』は稗田阿礼が記憶していた歴史物語や伝説を文章化したものだ。この記憶の神様にちなんで大和郡山市では「記憶力大会」が実施され、今年で8回目になるそうだ。
大阪市住吉区庭井町に「大依羅(おおよさみ)神社」が鎮座する。
今は閑静な境内の普通の神社だが、かつては「名神大社(めいしんたいしゃ)」という格式が与えられていた。『よさみ郷土かるた』の「お」の読み札にはこう書いてある。
大依羅神社 大池守る 名神大社
大依羅神社は「延喜式神名帳」において、摂津国住吉郡内では住吉大社と並ぶ名神大社として記載されている。かるたの解説には「この神社は住吉大社よりも古くからあると言われ、…」と記され、古い由緒を誇っている。なお読み札の「大池」については追って紹介する。
この神社の御祭神は、建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)、底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中筒之男命(なかつつのおのみこと)、上筒之男命(うわつつのおのみこと)である。
建豊波豆羅和気王は、浅学にしてこれまで耳にしたことのない御名であったが、このたび第9代開化天皇の皇子として『古事記』に登場することが分かった。『古事記・祝詞・風土記』(大正4年、有朋堂書店)で書き下し文を読んでみよう。
葛城之垂見宿祢(かづらきのたるみのすくね)の女、鸇比売(わしひめ)を娶して生みませる御子、建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)。
建豊波豆羅和気王は、道守臣(ちもりのおみ)、忍海部造(おしぬみべのみやつこ)、御名部造(みなべのみやつこ)、稲羽忍海部(いなはのおしぬみべ)、丹波(たには)の竹野別(たかぬのわけ)、依網(よさみ)の阿毘古(あびこ)等が祖なり。
これを憶えていたという稗田阿礼の記憶力には舌を巻くが、それよりも「よさみのあびこ」に注目したい。地下鉄御堂筋線の「あびこ駅」は「大依羅(おおよさみ)神社」から近い。彼はこの地の豪族であった。依網(よさみ)一族は神功皇后の三韓征伐にも関係がある。『日本書紀』巻第9「神功皇后紀」の仲哀天皇9年9月の条に、次のように登場する。出典は文部省『日本書紀精粋』(昭和8年)である。
既にして、神誨ふること有りて曰く、和魂(にぎみたま)は王身(みみ)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂(あらみたま)は先鋒(みいくさのさき)として師船(いくさのふね)を導かむ。即ち神教を得て拝礼(ゐやま)ひたまふ。因りて依網吾彦男垂見(よさみのあひこをたりみ)を以て祭神主(いはひのかむぬし)と為す。
神功皇后が三韓征伐に向かうにあたって、住吉大神は「和魂はそなたを守り、荒魂は船を導くであろう」と告げた。教えを受けた皇后は拝礼し、依網吾彦男垂見に神を祀らせた。この住吉大神が底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命である。
つまり、大依羅神社は豪族依網氏の祖霊信仰に始まり、大和朝廷との関係が深まることで祭神が加えられたのだろう。記紀の双方に登場する依網一族、彼らの創建した神社は1800年以上といわれる時を経て、誇り高くも静かに鎮座している。