酒を目で呑むのが好きで、瓶のラベルを眺めたり酒器を愛でたりしながら陶酔している。食事の快楽における器(うつわ)の割合はどれくらいか。けっこう大きな割合になるのではないか。器は食べれないのにおいしいのである。
うきは市浮羽町浮羽に「浮羽島御所阯」がある。北側の穏やかな田園を眺めていたら、日田方面に緑色の特急が通過していった。久大本線のゆふいんの森1号である。
ここは第12代景行天皇が御座した場所である。だから御所と呼ばれ、石碑が注連縄で飾られている。景行天皇の実在は不確かだが、自ら征西すること7年、土蜘蛛や熊襲を平定して九州を大和朝廷の勢力範囲とした。
天皇が熊襲を平定した後も九州に長く留まったのは、民草を朝廷の恩沢に浴させ、威光を知らしむる狙いがあったのだろう。九州巡幸も終わりに近付いたころ、『日本書紀』に次の記述がある。
八月、的(いくは)の邑に到りまして進食(みをし)す。是の日に膳夫等盞(うき)を遺(わす)る。故れ時人其の盞を忘れし処を号けて浮羽(うくは)と曰ふ。今的(いくは)と謂ふは訛れるなり。昔、筑紫の俗(ひと)盞を号けて浮羽と曰ふ。
景行天皇18年8月、的(いくは)で天皇は食事をなさった。この時、あろうことか食事係が盃(さかずき)を忘れてしまったのである。当時の人は「うき」を忘れた場所だから、ここを「うくは」と呼んだ。現在は訛って「いくは」と呼ぶ。むかし、九州の人々は盃を浮羽と呼んだのである。
『日本書紀』の注釈である『釈日本紀』(鎌倉末期)巻十に採録されている「筑後国風土記逸文」にも、次の記述がある。
昔、景行天皇、国を巡ること既に畢(を)へて、都に還(かへ)ります時、膳司(かしはで)この村にありて、御酒盞(みさかづき)を忘れたり。天皇、勅(の)りたまひしく、「惜(あたら)しきかも、朕(あ)が酒盞(うき)はや」と。俗(よ)の語に酒盞をいひて「うき」となす。よりてうきはやの郡といひき。後の人誤りて生葉(いくは)の郡と号(なづ)く。
こちらは天皇のお言葉が書いてある。「ん~っ、残念!私の盃を忘れるとは」口惜しがっていらしゃる。それでも、盃の代わりなど何とか調達できそうなものだが。よほどお気に入りの盃を携行していたのだろうか。
ともあれ、オレの盃がないとは!、「うき」がないとは!、「うき」は!、「うきは」、「浮羽」と変化したということだ。そんな地名ってアリ?と疑問をお持ちの方に、もう一つの地名説話を紹介しよう。浮羽町郷土会発行の『町の昔ばなし』所載の「楠の巨木物語」である。
昔々、九州はほぼ中程に阿蘇の大火口があり、その麓に天にも届くような楠の大木がそびえ立っていました。その木は高さが三万三千尺(約一万米)もあり、まわりは一万人で囲んでも囲みきれず、樹齢は八万年もたっていました。
大木の落とす影は、朝日の昇るころの長崎まで影がのび、英彦山をかくし、夕日は四国の伊予まで影がのびて、由布岳をおおっていました。麓の村々は一日中陽があたらず、いつもじめじめして、作物は育たず、村人たちは病気がちでした。
困った人々は大男に頼んで大木を切り倒してもらいました。ここからたくさんの地名が発生することとなったのです。
楠の木が伐り倒されるときに、葉っぱが博多までとんで行き葉の形がついたので「はかた」と云われるようになりました。
(中略)
玖珠盆地の西の方では楠の木が倒れ掛かって丸く凹んだ山があり、「大撓(おおだお)」と云って浮羽の町からよく見えます。
その浮羽も楠の木が倒れるときに、川に葉がいっぱい浮いたので、「浮羽(うきは)」の名が残りました。
いやいや、それはないでしょ、という話だが、スケールの大きさが素敵ではないか。「うきは」の地名は天皇由来か巨木由来か、天皇はどのような盃をご愛用だったのか、伝説は想像力をたくましくしてくれる。
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